ワーナー・ブラザース映画の製作室長として、「ハリー・ポッター」「マトリックス」「ラスト・サムライ」「硫黄島からの手紙」など、数多くのヒット映画を送り出してきた小川政弘氏(77)と、本紙に多くの映画評を寄稿している青木保憲牧師(50)が、東京の本紙事務所で対談を行った。
小川氏は今春、自身初となる著書『字幕に愛を込めて』を出版。青木牧師に同書を寄贈したところ、青木牧師から「ぜひ対談を」と連絡があった。小川氏がこれを快諾したことで、日本の映画界に46年半身を置いてきた小川氏と、年に50本は映画を鑑賞するという日本のキリスト教界きっての映画好きである青木牧師による対談が実現した。
対談で語られたトピックスは、『字幕に愛を込めて』で触れられているさまざまな映画から、「パウロ」「神の小屋」など最近劇場で公開されたクリスチャン映画、さらに今後の映画伝道の在り方まで、多岐にわたった。その対談の模様を、全4回にわたって掲載する。
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映画との出会い
――まず、お互いに自己紹介をお願いします。
小川:生まれたのは1941年9月8日、ちょうど太平洋戦争が始まった年に生まれました。場所は岩手県釜石市で、4歳までそこにいました。その後、父の仕事の関係で家族は東北各地を転々としましたが、終戦前に秋田県本荘町(現・由利本荘市)に移り住みました。そこで20歳まで過ごしました。
当初、私は8歳年上の姉からの援助を受けて大学に進もうと考えていたのですが、その姉が山で遭難して亡くなってしまいました。それで大学進学の夢は途絶えてしまったのですが、やはり東京で仕事はできないものかと考え始めました。その時思い浮かんだのが、「私の好きな映画で仕事に就けないだろうか」という考えでした。
――そこで映画との関わりが出てくるんですね。
小川:そうなんです。当時は映画全盛期で、本荘町は人口約3万人の小さな町ながら、映画館が4つもありました。私が頻繁に映画を観だしたのは、中学2年の頃からです。ジェームス・ディーンに憧れていました。娯楽といえば映画くらいしかない時代でしたから、「この町で上映される洋画はすべて観てやろう」という意気込みを持って映画館に通っていたのです。観終わった映画を記録する「映画ノート」なんてものを自前で用意しまして、それに記録していったのです。
とはいえ、なかなかすぐに映画関係の仕事に就けるはずはありませんでしたから、高校卒業後1年半ほどは地元の会社で働きました。しかし上京の夢もあり、何とか映画に関わる仕事がしたいと、当時あった洋画の配給会社のほとんど全社に「仕事がないか」と依頼状を送りました。でも、次々に断りの返事が返ってきました。そこへ最後に望みを掛けていたワーナー・ブラザース映画から、「メールボーイの仕事ならあるぞ」と返事があったんです。私は、映画に関する仕事なら何でもやってやろうと思っていましたから、喜んで秋田から東京にあったワーナー・ブラザース映画の本社を訪ねていきました。ここから私の映画人生が始まったのです。
――青木先生は映画とどんな出会いを?
青木:私は愛知県の知多半島で生まれ育ちました。両親共に教員という家庭でした。今思うと、幼い頃からテレビっ子で、いろんなアニメやドラマをいつもテレビにかじりついて観ていたように思います。映画といえば、当時はいわゆる「2番館」と呼ばれる映画館が地方に1つ、2つという程度のものでした。だから最新映画を観て育つことはありませんでした。
生まれて初めて観た映画は「キングコング」でした。1976年、ジョン・ギラーミン監督のリメイク版でした。生まれて初めて大きなスクリーンで映画を観たので、その光景は今でも覚えています。しかも巨大なコングが「ガオー」とやるのですから、小学生低学年の私にはインパクト大でした。
翌年、父に連れられて「スターウォーズ」を観に行きました。これが私の映画人生を決定付けたといってもいいと思います。こんな「映画」というよりも、こんな「世界」があるんだ、と本当にダースベイダーやルークが実在すると信じ込んでいたように思います。
やがて中学生、そして高校生になると、名古屋へよく行くようになりました。表向きは塾通いです。でも内実は、塾をサボって映画を観るようになっていました。夏期講習の時など、10日間連続で塾に行くフリをして、ほぼ毎日映画館へ通っていました。小川さんが『字幕に愛を込めて』の第3部でお書きになっている映画群を、私はほぼすべて網羅しています。そういう意味で、この本は私の「青春の軌跡」と言ってもいいくらいです。
キリスト教との出会い
――それぞれに思い出深い映画との出会いがあるのですね。ところでお二人はどのようにしてキリスト教の信仰を持たれたのでしょうか。
小川:私はワーナー・ブラザース映画に入社から1年ほどしたころに、太平洋放送協会(PBA)のラジオ番組「憩いの窓」を聴いて信仰を持つようになりました。ある夜、今まで聴いたことのない音楽がラジオから流れてきたのです。後からそれは賛美歌だと分かるのですが、その時は思わずそれに聴き入ってしまいました。素晴らしい音楽の後、聖書キリスト教会の尾山令仁先生が聖書からお話をしてくださいました。その話になぜか引き付けられていったのです。
私はいろいろあった生い立ちのせいか、人生は努力しても変えられない、何か絶対的なものによって決められているという、不幸な運命論にしばられていました。しかしラジオから流れてくる尾山先生の聖書の話を聞く中で、「絶対的な存在」が聖書の神であって、このお方は決して人間が不幸な人生を送ることを望んでいないのだ、ということが分かり始めたのです。やがて聖書を購入し、「憩いの窓」を聴き始めて半年くらいたった1962年のある晩、神から直に語り掛けられた体験をしました。
その細くて静かな声は「お前は東京に出て来て、絶対に変わらないものを求めているだろう。それは聖書であって、ここにこそ真理があるのだ。これを信じられなかったら、この世に信じられるものは何一つない」と私に迫ってきました。それで人生で初めて神に祈りをささげたのです。このようにして、私のクリスチャン人生は始まりました。
私の場合は、仕事を通して信仰の証しを立てることが使命だと思いました。具体的には、洋画であれば必ずと言っていいほど登場する聖書やキリスト教に関する会話を、字幕を通して正しく、分かりやすく伝えることを生涯の使命と受け止めることになりました。また、所属教会の牧師からの紹介もあり、聖契神学校の夜間部で4年間学びをさせていただきました。
――青木先生は、クリスチャンホームで生まれ育ったとお聞きしました。
青木:はい、そうです。母が幼少期に四日市空襲で焼け野原になった町の姿を見て虚無感を抱き、扉をたたいたのがカトリック教会でした。その後、愛知県に教員として就職し、父と出会って結婚、知多半島へ嫁いできたそうです。しかし当時そんな田舎に教会なんてない。だから自分でつくろうと、知り合った仲間たちと聖書研究会を自主的に始めたそうです。やがて牧師を招聘(しょうへい)し、今日では100名ほど集まる教会となっています。私は聖書研究会時代から、母に連れられて教会へ通っていました。
でもやがて思春期になり、教会の教えや考え方と世の中のそれとが合わないことに気付き始めたのです。そして先ほど申し上げましたように映画と出会い、表向きは塾通い、でも本当は映画三昧の日々を送りました。これは信仰面においても同じでした。表向きはクリスチャン、でも本当はそんな世界観に嫌気が差していたのです。
でも、どうしてもキリスト教のすごさを認めざるを得ないことがありました。それは、洋画を観ていると、必ず聖書の話が出てくるんです。いくらアホな高校生でも、ハリウッド映画を観ている世界中の人々の数が、日本の観客よりも多いことは分かっていました。だから聖書やキリスト教は、本当はすごいものなんだ、という感覚は失わずにいたのです。やがてそういう環境の中で、次第に神様の声を素直に聞けるようになっていきました。そして牧師という道を選ぶことになったのです。(続く)