私たちはキリスト者(クリスチャン)となる決断をするとき、一つの希望(または夢)を思い描くことがある。それは、自分がイエス・キリストを信じ受け入れることで、自分の将来が良い方向に変化する、ということだ。多かれ少なかれ、そのような期待と願いを込めて人は「キリスト教」を受け入れ、ある者は祈りのために膝をかがめ、ある者はその場で洗礼を受ける。特に「福音的な」キリスト教を受け入れた場合、このような期待を抱くことは喜ばしいこととなる。
しかししばらくすると、私たちの現実はそんな簡単には変化しないと気付かされることになる。いくら祈っても問題が解決しない。どんなに熱心に聖書を読み、教会の行事に参加しても、悩みが消えない。それだけではない。むしろ「キリスト者になった」ことで引き起こされる新たな問題や疑問が生まれる。教会の中で、教会と家庭の間で、クリスチャンと称することで、今までの人間関係がむしろ悪くなることもあるだろう。
本作「パウロ 愛と赦(ゆる)しの物語」は、まさにそんな現代的な問題の原点ともいえる最も過酷な状況から始まる。暴君として名高いローマ皇帝ネロが、紀元67年に起こったローマの大火事件の実行犯として、キリスト教徒を名指ししたことで、大きな迫害が起こる。そして人々から迫害を受けることになったキリスト教徒たちは、隠れたコミュニティーで細々と過ごさねばならなくなってしまう。さらに当時のキリスト教会のリーダーであったパウロが捕らえられ、大火事件の首謀者として牢獄(ろうごく)につながれてしまう。まさに「踏んだり蹴ったり」な状況である。
人々は動揺し、ある者は武器を取り、ローマ帝国の転覆を図ろうとけしかける。ある者はローマを去り、別の場所で生きることを選択しようとする。しかし逃げることは、ローマから他の地域へ移住することが禁じられている同胞を見捨てることになる。だから今のまま耐えるしかないと訴える者もいる。
そんな中、パウロの友人であり、ルカによる福音書の記者である医師のルカが、パウロの獄舎へもぐり込み、ルカによる福音書に続く物語をパウロを中心に描き出そうと考える。パウロが死刑になる前に、彼から直に話を聞き、物語をまとめることができたら、苦しんでいる同胞への大きな励ましとなるだろう、とルカは考えたからである。
だがその物語が完成する前に事態は動き出してしまう。剣と暴力によって革命を起こそうとする一部の者たちが、パウロ奪還を企図して、彼が囚われている獄舎を急襲してしまうのだ。
重厚なセットと衣装に彩られた世界観は、「ベン・ハー」や「十戒」のようなスペクタクル性はないものの、観客を2千年前の地中海世界へと誘うに足るものとなっている。また、人々が直面する苦悩やそこで吐露する葛藤は、形こそ違えど、現代にも通じるものである。そういった意味で、キリスト者となった者たちの悩みや苦しみは、昔も今も尽きることがない。
そのような苦境に立たされたとき、キリスト者として人はいかに考え、生きるべきかを示すモデルとして、本作は多くのクリスチャンの心を打つ物語となっている。信仰者が「自らの信仰の在り方を再確認するための映画」としては最適である。この系譜に位置付けられるのは、近年の作品では「祈りのちから」が挙げられる。
印象的だったのは、パウロが自らのかつての姿(「サウロ時代」とでもいうべきか)を思い起こし、ステファノや他の多くのキリスト教徒を迫害していた時代を振り返ることで、今の心境に至った過程を観客に訴え掛ける描写である。
私たちは使徒言行録に登場するパウロが好きだ。彼のヒーロー的な活躍によって、キリスト教は一地方の「カルト宗教」から、ローマ帝国全体をまとめ上げる一大宗教への道を歩みだすことができたからである。だが一方でパウロ自身の手紙を見るなら、多くの点で使徒言行録との矛盾を指摘することができる。つまり、使徒言行録のパウロは第三者の手によって「生み出された」パウロ像ではないか、ということである。本作では、この点に直接言及する箇所はないが、両者の整合性を取るような「ある工夫」が施されている。ここに好感を持った。たとえその「工夫」が信仰者の願望や期待を結晶化したものであったとしても、それでいいではないか、と思わせる力強さが本作には存在する。
確かに聖書学的に探究するなら、使徒言行録と他のパウロ書簡との間には齟齬(そご)や食い違いが散見される。しかし多くの人は神学の専門家でもないし、そんな話を聞きたいわけではない。観客(私も含めて)は、より史実に近い「パウロ像」を求めつつも、自らが決断して受け入れた「福音の調べ」が間違っていなかったという確信を手にしたいのである。その目的を果たすに十分な感動が、本作にはある。私も映画を観終わったとき、自身の「信仰」の琴線に触れられた感覚を持った。ラストのパウロの姿に、確かに「キリスト者=キリストに倣う者」の姿を見いだすことができた。
今回、私は試写会で本作を拝見した。面白かったのは、一緒に映画を観た友人(クリスチャンではない)が大いに感動していたことだ。「いろいろ勉強になりました」とのこと。しかし彼から出てくる感想は、私が抱いたものとはまったく異なっており、それがまた面白かった。
彼はキリスト教に興味関心を抱いていたため、映画を観たことでいろいろと考えさせられたようだ。現在、私は彼と「キリスト教」について学ぶひと時を持っている。いつかもう一度、彼とこの映画を観てみたいものだ。その時、彼はどんな感想を抱き、どんなところに感動するのだろうか。
映画とは、作品そのものが変化しなくとも、観る私たちが変化することで、まったく異なった色合いを投げ掛けてくるものだ。それはもしかしたら、神と私たち人間の関係においても似ているといえるかもしれない。神は変わらない。私たちが変化することで、神との関係が変化(深化)していく――。
11月3日から公開される本作は、ぜひ一人でも多くのクリスチャンに観てもらいたい映画である。同時に、キリスト教に興味関心を抱いている未信者の方と一緒に鑑賞するのもいいだろう。思わぬ化学反応が引き起こされるかもしれないから!
■ 映画「パウロ 愛と赦しの物語」予告編
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