4月19日から「ある少年の告白」という映画が公開される。原作小説の著者ガラルド・コンリーの体験談を元にした作品で、同性愛の矯正キャンプへ強制的に参加させられた青年の葛藤を描く人間ドラマである。主演は「マンチェスター・バイ・ザ・シー」で主人公の繊細なおい役を好演したルーカス・ヘッジス。同性愛に悩む大学生ジャレッドを演じる。彼の両親役がこれまたすごい。母役にニコール・キッドマン。バプテスト系教会の牧師でもある父をラッセル・クロウが演じる。共にアカデミー賞受賞俳優である。監督は自身も俳優で、今作が監督としては2作目となるジョエル・エドガートン。前作のホラー映画「ザ・ギフト」からまったく異なるジャンルを映画化したことになる。
物語はそのオープニングから観る者の心を締め上げてくる。少年たちがあるキャンプに参加している。それは一見すると、明るく爽やかなサマーキャンプのような様子だが、どこかおかしい。そしてインストラクターが少年たちに向かって話を始めると、その「違和感」の理由が分かる。彼らは同性愛を「克服」すべく、集められていたのである。そして「男らしさとは何か」「男性としてどう生きるべきか」を教授され、その実践がこのキャンプで行われていたのである。
主人公のジャレッドは、牧師家庭に生まれ育つ。美しく優しい母と、厳格で家庭を大切にする父の下で普通に育ってきた(そう本人は思ってきた)。父が牧師であった関係で、教会との密接なつながりを持ちながら成長してきたジャレッドは、いつしか自分の中に男性に引かれる気持ちがあることに気が付く。それを告白したジャレッドに対し、両親はそのような「悪しき思い」を「改善」することを求めるのだった――。
観ていて痛々しいのは、両親が彼に「お前も自分を変えてみたいと思わないか」と問い掛け、それを受けて「自分もそう思う。だからキャンプへ行かせてほしい」と、ジャレッド自身が頼むシーンである。ジャレッドも自分の状況を自ら「悪」と見なすことで、そこから必死に自分を変えようと努力しなければならなくなり、もがき始めるのである。つまり矯正キャンプは、形式上は本人が希望して参加していることになっているのである。
本作で登場するバプテスト系教会とは、米国では19世紀末に「根本主義者」を標榜したグループの一角を占める。その後、1950年代以降は「福音派」と称されることになり、現在に至っている。聖書を字義通り読み、書かれていることを事実と受け止める前提で世界を見ていくことが基本となるため、必然的に現代の状況にそぐわない点も多々現れてくることは否めない。しかしこの「齟齬(そご)」をどう捉えるかで、2つに分かれることになる。つまり「この世が間違っていて、悪しき方向へ向かっている」とするのか、それとも「聖書は当時の時代性を示しているのであって、すべてが現代にフィットするとは限らない」と捉えるのか、である。この差は、保守(福音派)とリベラル(メインライン諸派)の立場の違いにもつながり、現時点では収束の気配はない。
新約聖書の大半を書いたと言われているパウロの言葉に、次のようなものがある。
それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。(コリント一6:9~10、口語訳)
保守的な立場に立つなら、聖書のこの箇所から「同性愛者は神の国(天国)へ入ることはできない」という解釈が生まれてくる。言い換えるなら、教会は彼らを罪人と見なし、罪からの解放によってのみ、神の家族となることが許される、という論法になるということである。
一方、リベラルの立場から言うなら、ここで言う「男娼」とは「神殿娼婦」という異教の習わしであって、現在のLGBT問題とは異質の問題である、と捉える傾向がある。むしろ「神は全世界の人々を愛している」とする普遍的なキリストの姿を強調することで、LGBTで悩む人々を教会は「そのまま」受け入れるべきだと主張する。
もちろん他にも「同性愛禁止」の論拠とされる箇所は多数存在する。そうなると、これは神学的には聖書解釈の問題へと波及していく。現在も多くの教会、牧師、そして神学者がLGBTの問題について各々の立場から発言し、議論を交わしている。果たしてこの問題に答えがあるのか。これからも丁寧に向き合っていかなければならない課題であることは間違いないだろう。
しかし、映画ではそんな悠長なことを言っていられない。そして、むしろ本作のような展開の方が、一般的な家庭で実際に起こり得る現象だといえよう。教理がどうとか、真理がどうとか言う前に、目の前の息子が、そして彼に立ちはだかる両親がどうするべきなのか、ということである。
本作はとてもシビアな、それでいて現実的な解決を提示している。従来の「家族像」を絶対とするなら、これはハッピーエンドとはいえないだろう。しかし、それによってもう一度互いが歩み寄ることを願うとするなら、こういった解決が一番リアリティーあるものなのかもしれない。
牧師として、父親として、そしてキリスト者として、観終わった後に「モヤモヤ」が残る映画である。しかし、この「モヤモヤ」を決して投げ捨てないという覚悟は必要であろう。すべてが明白で、はっきりと白黒が分けられた世界など、この世には存在しない。「モヤモヤ」をそのまま受け止め、それに手を触れることを恐れない信仰者となりたいものだ。
そんなことを思わされる一作である。キリスト者こそ、勇気をもってぜひ鑑賞してもらいたい。
■ 映画「ある少年の告白」予告編
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