さて私は前回、イスラエルの人々が七週の祭りにルツ記を読むということ、ルツは異邦人(モアブ人)であったにもかかわらず、信仰によってイスラエルの家系に加えられ、キリストの血筋を紡ぐ者となったことを語りました。
ルツは素晴らしい信仰告白をしましたが、彼女と姑ナオミは依然として非常に苦しい状況にいました。彼女たちは、翌日食べるものさえありませんでした。しかしルツは、苦しい状況であるにもかかわらず、自分の不幸を嘆いたり、自暴自棄になったりはしませんでした。彼女は自分のできる精いっぱいのことをしようとしました。
モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで」と言った。(ルツ記2:2)
古代イスラエルにおいては、収穫をした後に地面に落ちている麦の穂を地主たちが集めることは、神の法において禁じられていました。それは、神様が定めてくださった「あわれみの法」によりました。聖書を確認しましょう。
「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(レビ記23:22)
ちなみに、日本でも柿の実などを収穫するときに、すべて取らないで一部を残しておくという習慣があり、「木守柿」という名前まであります。それは冬になり餌の少なくなるときに、鳥や虫たちの命をつなぐという意味もあるようです。
絶望的な状況にあったルツにとって、この神の法はまさに恵みでした。しかし、いくら恵みとはいえ、それは想像するだけでも大変な重労働でした。広い畑の中に、1粒、2粒と落ちている麦を拾うのです。中腰の姿勢のまま、一日中暑い炎天下の中を働いたとしても、生きていくのにやっとの一握りの麦を集めるのが精いっぱいでした。
ルツも弟嫁のように自分の国に戻れば親兄弟もいただろうし、そこで再婚すれば人並みの生活を送ることもできたでしょう。しかし、彼女は自分の亡くなった夫とその母に真実を尽くし、イスラエルの主を自分の神とするために、その過酷な労働につかせてくださいと自分から志願したのです。
しかも彼女は、一度落穂を拾い始めると片時も休むことなく一日中働き続けました。畑の人が彼女の働く姿勢についてこう証言しています。
「彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」(ルツ記2:7)
ところでルツが落穂拾いに出向いた先は、ナオミの親戚のボアズという人のところでした。このボアズという人は、神を敬う敬虔な人でありました。彼は、ルツがとてもよく働くのを見、またルツがナオミに対して真実を尽くしたということを聞き、ルツに親切な言葉を掛けるようになりました。
「娘さん。よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい。刈り取っている畑を見つけて、あとについて行きなさい。私は若者たちに、あなたのじゃまをしてはならないと、きつく命じておきました。のどが渇いたら、水がめのところへ行って、若者たちの汲んだのを飲みなさい。」(ルツ記2:8、9)
彼女は顔を伏せ、驚いて彼にこう答えました。「私が外国人であるのを知りながら、どうして親切にしてくださるのですか」
彼女が驚いたのも無理はありません。他の人たちは誰一人、他国人である彼女に対して親切な態度をとらなかったのですから。前回説明したように、「・・・モアブ人は主の集会に加わってはならない」(申命記23:3)と、モーセの律法に明記されていたからです。
しかしながら、さらにボアズはこのような行動に出ました。
食事のとき、ボアズは彼女に言った。「ここに来て、このパンを食べ、あなたのパン切れを酢に浸しなさい。」彼女が刈る者たちのそばにすわったので、彼は炒り麦を彼女に取ってやった。(ルツ記2:14)
ボアズは親切な言葉を掛けただけでなく、ルツと共に食事をしました。しかも共にパン切れを酢に浸して食べるほどですから、非常に近くで食事をしたことになります。どうしてボアズはモーセの律法に逆らってまでルツに親切にしたのでしょうか?
さて私は、「あわれみの法」という表現を使いましたが、聖書の中に「あわれみの法」という言葉が出てくるわけではありません。私が神の法を学ぶときに、その「法の精神」の中に神様のあわれみの心を感じるということです。
「法」というのは、冷たく冷徹なものだというイメージがあります。そして堅苦しい法律の多い社会よりも、法の少ない自由な社会のほうが良いのだと思う方もいるかもしれません。確かにそう感じてしまうケースがあります。
沖縄には朝の通勤時間、那覇方面の一番左側のレーンは、バスかタクシーしか使ってはいけないことになっています。ただし、左折する場合は30メートル手前であれば、バスレーンに入ってよいそうです。ところが先日、40メートルくらい手前の所に警察が隠れており、少し手前から左折するために左側に車線変更した車を何台も捕まえていました。
交差点の直前に、車線変更できるスペースがあればよいですが、もしもうまく入れなければ、その車は車線を1つ塞いでしまいますし、直前の車線変更は危険でもあります。しかし、警察は「法律」ですからと言って容赦しません。
法は、書かれた冷たい文字ですので、法を執行する人たちが「法の精神」を理解していないと、正義の名の下に冷酷なことが行われる危険性があります。このケースは罰金で済みますが、時に人類は法の名の下に弱者を守るのではなく、踏みにじったり、その命を奪ったりすることさえあります。
しかし、法の精神が理解されると、つまり、なぜそのような法が作られたのかということを深く理解すると、法は冷たい裁きの道具ではなくて、私たちを守ってくれる、人間愛に端を発したものであることが分かります。
交通法規は人々を事故から守ります。校則は乱れやすい10代の子どもたちに一定のガイドラインを与え、学業に集中するのを助けます。刑法は、人々が悪に誘惑されるのを防ぎ、民法は人々の争いを仲裁します。普通の法律でもそうですから、神様の法律(律法)が愛とあわれみに満ちた法であるのは言うまでもないことです。
今は亡くなられた韓国オンヌリ教会のハ・ヨンジョ牧師という有名な先生は、メッセージの中で「私たちが神の言葉を守らなければならないというよりは、神の言葉が私たちを守ってくれるのだ」と熱く語られていましたが、まったく同感です。
ちなみにこの先生は日本をとても愛していた先生で、人工透析をしながら、死の直前まで何度も病体をおして日本に来て、神様の愛と恵みのメッセージを伝えてくれました。
ボアズがもしもモーセの律法を単なる冷たい法として理解していたらなら、「モーセの律法に従って、今すぐこのモアブの女を追い出せ」と言っていたことでしょう。そして、それが神の法(言葉)に従順することだと考えたことでしょう。
しかし、ボアズは法の精神「父の心」を理解していたからこそ、モーセの律法に反して、ルツをイスラエルの一員として迎え入れ、親切な言葉を掛け、食事まで共にしたのです。
ボアズは自分の僕(しもべ)たちに、さらにこのように言い加えました。
「あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」(ルツ記2:16)
神の法(律法)は、その精神(父の心)を理解するか否かで、まったく逆の結果を生み出します。ボアズは神の律法に従い、彼女を追い出すこともできました。しかし彼は、僕たちに「束からわざと穂を抜き落と」させ、ルツが十分に食べ物を得ることができるようにしたというのです。これこそがまさに私たちの父なる神の心なのです。
先ほど私は、人々が木守柿を残すという話をしましたが、どうやらこれは人が始めたことではないようです。ある方が、自分の庭の木に残された柿を食べる鳥たちの様子を見ていたところ、何種類もの鳥たちが少しずつ分け合いながら柿を食べていたそうですが、最後の1個だけは彼らも食べなかったというのです。
どうやらそれは、厳しい冬の中でどうしても食べるものがないときに、一番弱い鳥が食べて命をつなぐことができるように鳥たちが残しておいたようなのです。このように私たちは自然界の中にも、法の精神(父なる神のあわれみの心)を見いだすことができます。
もしかしたらある人たちは、弱者にあわれみの心を開くことは素晴らしい理想的なことかもしれないが、自分の権利を一部放棄し、弱者を助けることを負担に感じてしまうと言うかもしれません。
しかし、残された柿が「鳥守柿」ではなく「木守柿」という名前であることに注目してください。一番弱い鳥を養うことは、木を守り、生態系全体を守ることにもつながるのです。自然界は有機的につながっているからです。そして、それは人も同様です。
確かにこの時のルツは貧しく、夫を亡くした異邦人であるという、非常に弱い立場にいました。しかし、彼女が「落穂拾いの法」とボアズの温情によって命をつないだおかげで、後にダビデ王が生まれ、ダビデ王はイスラエルの危機を何度も救いました。
もしもこの時、ボアズが神の律法を表面的に理解してルツを追い出していたら、イスラエルは少し後の時代にペリシテ人によって滅ぼされたかもしれないのです。私たちが弱者を助けることは決して負担などではなく、自分のためでもあるのです。
そして何より、私たちは自分自身が神様のあわれみを受けなければ生きることのできない存在であることを忘れてはいけません。ある人々は、自分の弱さを十分に知っているかもしれません。またある人々は、自分に自信があり、弱さなどまったく感じていないかもしれません。
しかし、主が私たちを見られるとき、私たちは皆一様に弱く、無力な罪人であり、霊的には暗黒と死の陰に絶望している者たちです。私たちはルツ記を読むとき、自分をボアズの立場に置くのではありません。ボアズはイスラエルの主を示しているのです。
私たちが絶望し、希望が見えず、罪を犯してしまうとき、律法は「罪を犯した者は、死ななければならない」と言いますが、父なる神様は「束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい」と言われるのです。
そして、私たちが命をつなぐことができるように、キリスト・イエスをこの地に遣わし、律法だけでは伝えることのできなかった父のあわれみの心を私たちに見せてくださいました。1カ所御言葉を読みましょう。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(1ペテロ1:3)
父がこれほどまでに私たちを愛し、あわれんでくださるのですから、私たちもまた自分の周りにいる人々に対してあわれみ深い者となりましょう。私たちは神の律法によって人を裁くのではなく、互いにいたわり合うのです。それこそが律法の精神(父の心)なのであり、私たちが主の祭りに際して心に留めるべきことなのです。最後に1カ所聖書を読んで終わりにしましょう。
あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。(ヤコブ2:13)
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