私はいつの頃からか、テレビをまったく見なくなりました。それは自分がテレビの内容に魅力を感じなくなってしまったからです。もちろん中には良いコンテンツもありますが、多くの番組が自分とは合わなくなっています。だからと言って、テレビを批判するつもりはありません。これはテレビというメディアの特性と自分の関心事のズレの問題だと思っています。テレビはその特質上、CMを通して広告料を得ていますので、視聴率を求めなければなりません。そして、そのためには特定の人向けに深い内容を扱うよりは、老若男女に広く受け入れられる内容を提供しなければなりません。時間も限られていますので、大切なことであっても、大衆受けしない内容を深く扱うということはできません。
半面、30代ごろから興味深く聴いているのがラジオです。ラジオでは主に1人か2人の論客が、さまざまな社会問題について論じるので、比較的まとまった時間、テーマを絞って深く解説することが可能です。そしてリスナーは、彼らの視点・論点を通して多くのことを学ぶことができます。もちろん、すべてを鵜呑(うの)みにするわけではありませんが、教えられることが多いと感じています。
多くの優れた学者や論客たちの中でも、私は数人の方々に特段の関心を持ってきました。それは彼らの論じる内容に、深み鋭さがあり、専門性や独自性があり、同時に人としての温かさがあると感じたからです。この数人の方々の語ることを聞き続けた結果、私はある共通点を見いだしました。それは彼らの中に何らかの宗教性が色濃くあるということです。
しかし、そのことはあまり世間的には知られていません。それは彼らが自分の信仰を喧伝(けんでん)することはせず、内に強く秘めているからです。言葉にすることも多くありませんから、長年ラジオを聞いていても、気付かないほどです。しかし、世間的に有名であり、影響力があり、多くの著書をも書いている彼らの何人かはクリスチャンであり、何人かは仏教的な思想を色濃く持っています。彼らの活動力また人々に対する温かい視点の源泉がその宗教性にあることは、ほぼ間違いないと思います。
私が個人的に多くを教えられているこれらの人々の1人である佐藤優氏に関しては、以前「佐藤優氏の執筆動機および教義擁護策への警鐘」という題で書かせていただきましたが、今回は青山繁晴氏について書かせていただきたいと思います。青山氏は国や世界を憂い、多くの提言を行い、また行動に移してこられた方です。現在は参議院議員として、多くの言論活動をしていらっしゃいますが、特筆すべきは拉致被害者の救出に関する並々ならぬ姿勢です。彼は自分の命を賭してでも、被害者を救出しようと本気で取り組んでいます。私は以前から、この方のこの熱意と自己犠牲の精神はどこから来るのかと不思議に思っていたのですが、たまたまインターネットを通して彼のラジオ番組を聞いて、この謎が氷解しました。
青山氏はそのラジオ放送の中で、「キリストが100パーセント復活されたということを信じている」と語っていました。青山氏はエルサレム、そしてゴルゴタの丘に何度も行かれたそうで、その場に行ったときに、理屈抜きにキリストが死んで、墓に収められた後、復活したということを100パーセント確信したということです。私は非常に驚き、インターネットで検索したところ、青山氏は著書の中でも同様の内容を述べられていたようです。
青山氏の『危機にこそぼくらは甦る【新書版 ぼくらの真実】』(扶桑社新書)という本の書評を、ミオール / Mícheál さんという方が書いているのですが、一部を引用させていただきます。
「葉隠」の、武士道というは死ぬこととみつけたり、について死に方でなく生き方を説いたものと著者は解く。死ぬとは、人のために死ぬこと。主君のため、ではないところが、この書が禁書にされた最大の理由であったと思われる。人のために死ぬという心構えで生きよ、と著者は読む。同じことを著者はゴルゴタの丘に行ってつかむ。主イエズスがかけられた十字架を立てた穴が今も、その岩石に残る(丘でなく岩だった)。それを著者は見て、主イエズスの復活を確信する。著者はキリスト者でないが、主イエズスの生き方に、人類の罪を背負って死ぬことの意味をさとる。
青山氏は、ゴルゴタに行き、キリストの死と復活を確信し、自身もキリストが人類のために犠牲を払ったように、他者である拉致被害者をはじめ、多くの弱者のために命を懸ける心構えを持たれたのです。
これだけ聞くと、青山氏はクリスチャンなのかなと思いますが、先のラジオ番組の中で「自分はキリスト教の洗礼を受ける資格はないと思っている」とも言っています。それは、キリスト教の幾つかの教義が自分とは相いれないと感じているからだとのことです。このことについてはまた書かせていただければと思いますが、今日は日本でも指折りの論客であり、拉致被害者救出をはじめ国家の難題に非常に精力的に取り組んでいる青山氏が、「キリストは100パーセント復活された」と言及されたということを紹介させていただきたく書かせていただきました。
21世紀の神学
クリスチャントゥデイの編集長であられる宮村武夫先生は、「沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む」ということを教えてくださいました。つまり、遣わされた地に住みながら聖書を読んで神様の心を知るとともに、聖書をメガネとし、その地に対する神様の御心を考え、神学するということです。
それは地域だけでなく、「時代」においても同じことがいえます。私たちは激動の時代に生きています。かつて100年かけて起こった科学技術や生命科学の変化が10年で起き、それ以上の変化が3年、1年、数カ月のうちに起こるという時代に生きています。貧富の差はますます拡大し、異なる宗教や民族の方がすぐ隣で暮らし、人工知能、ロボットやその他の技術革新は、私たちの価値観、モラル、常識を次々に変えていきます。
このような時代に生き、生活し、時に苦しみ、悩みや不安を抱えながら、聖書を読んで神様の心を知ること、また聖書をメガネにこの時代を考えることの2つが、私たちには許されているのだと思います。ですから私は、これらのことを読者の皆様と一緒に考えていければと思っています。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。(使徒17:26、27)
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