前回私は、日本でも指折りの論客であり、拉致問題などに命を賭す覚悟で取り組んでいらっしゃる参議院議員の青山繁晴さんが、「キリストは100パーセント復活された」と言及されたことを紹介しました。青山さんはエルサレム、そしてゴルゴタの丘に何度も行かれたそうで、その場に行ったときに、理屈抜きにキリストが完全に死んで、墓に収められた後、復活したということを100パーセント確信したということです。
青山さんは、キリストの十字架が人類の罪のためであることに気付き、感銘を受け、ご自身もまた人のために生きる生き方を実践しておられます。だからこそ彼は、他の政治家たちが二の足を踏んでいる拉致問題などの難問に、あたかもご自身の肉身のことのように熱心に取り組んでおられるのです。
ここで私が注目したいことは、青山さんがキリストの自己犠牲的な十字架の死にのみ感銘を受けたのでなく、キリストの復活について言及されたことです。キリストの十字架の死は歴史的な事実ですから、信仰に関係なく、多くの人がそのことに感銘や感動を受けています。しかし、キリストの復活は生物学的な常識では不可能なことであり、信仰に属する問題です。
もちろん人類の歴史の中では、死んで間もない人が蘇生したという例はあります。しかしキリストは、全身から多くの血を流して死なれ、その後ローマ兵がわき腹を槍で刺し、そこからも多くの血と水が流れ出ました(ヨハネ19:34)。さらに彼は屈強なローマの兵の監視のもと、大きな岩によって塞がれた洞穴に葬られました。
キリストはこのような状況の中から3日目に復活したと聖書は語っています。束の間、死んで蘇生したわけではないのです。ですからこれは、生物学的に、常識的に、まったく不可能なことでありますから、これを受け入れるか否かは信仰の領域なのです。
しかもキリストの復活を信じる信仰は、キリスト者が信じている多くのことの中の枝葉末節的な部分ではなく、一番中核的な部分です。まさにそのことを信じるか否かが、キリスト者であるかないかを分けるほどの、根幹的で中心的な事柄なのです。使徒パウロはローマ書の中でこう宣言しています。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:9)
それにもかかわらず、青山さんはラジオの中で、「自分はキリスト教の洗礼を受ける資格はないと思っている」とも言っています。それはキリスト教の幾つかの教義が自分とは相いれないと感じているからだとのことでした。では、キリストの復活というキリスト教信仰の中核的なことを100パーセント信じていながら、キリスト者となることを否定させているキリスト教の教義とは何でしょうか。青山さんはラジオ番組の中で、その理由を3つ挙げておられました。
まず第一に青山さんは、キリスト教の神に限らず、アラーやゾロアスター教の神様、もしくは「天」と呼ばれている存在全般を肯定しており、自分は多神教的であるから、一神教であるキリスト教の洗礼を受ける資格はないとおっしゃっていました。
しかし、青山さんはご自身のことを多神教的であると言ってますが、実際には青山さんが言及されたキリスト教、イスラム教は言うに及ばず、ゾロアスター教すらも、一般に「世界最古の一神教」といわれています(ウィキペディア参照)。
おそらく青山さんとしては、特定の宗教の呼称にこだわらずに、少し広い意味で神様や天と呼ばれている存在を肯定しているのだと思います(使徒17:23参照)。そして、お話を聞いているとこの点に関しては、ご自身がキリスト教とならない決定的な理由ではないようです。一神教と多神教については、神の存在証明(7)多神教の起源を参照していただければと思います。
もう一つの理由として青山さんは、キリストが処女降誕したのではなく、普通の人のようにマリヤとヨセフの子として誕生したのだと考えているとおっしゃっていました。このことに関しては、青山さんだけでなくクリスチャンと呼ばれる人でも、処女降誕を理性的に理解し難いと感じている方々は多くいらっしゃると思います。
でも実は、キリストの処女降誕というのは、単にキリストを神格化するために後代の人たちが付け加えたエピソードではなく、創世記の最初から神によって啓示(暗示)されていることであり(創世記3:15)、聖書神学的にも重要な意味を持っています。しかし、普通の感覚の持ち主が、生物学的、常識的に起こり得ない処女降誕に疑問を持つのは当然のことです。
ところで、話を聞いているとこの点に関しても、青山さんがキリスト教とならない決定的な理由ではないようです(個人的には、青山さんはゴルゴタの丘で、理屈抜きに生物学的にあり得ないキリストの復活を確信されたということですので、処女降誕に関しても同様のことが起こる可能性はあると思います)。
では、青山さんがキリストの復活を信じ、彼の生き方に共感しながらも、キリスト教に相いれないものを感じている最大の理由は何かというと、それはキリスト教の教理にあるとのことでした。青山さんは「キリスト教の根幹は、人の造られた目的が、神の栄光を現すためであるというものであるが、これはとても西洋的であり、自分とは相いれない」とおっしゃっていました。「キリスト教徒の方が聞いたら問題発言かもしれないけれど」という断りを入れられた上での言葉でした。
これは、ウエストミンスター小教理問答書の一番最初に出てくる内容です。確認してみましょう。
Q. 人のおもな目的は、何ですか。
A. 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。
確かにこの教えは、キリスト教の代表的な教理問答(カテキズム)の一番最初に出てくるものであり、今まで多くのクリスチャンが何の違和感もなく、いやむしろ感銘さえ覚えながら受け入れてきた教えです。しかし、青山さんは日本人として、この教えに相いれないものを感じられているわけです。
この感覚の「乖離(かいり)」はどこにあるのでしょうか。このことについて皆様と一緒に考えていきたいと思いますが、長くなってしまいますので、今日は問題提起までとさせていただきます。結論を先に言えば、この乖離を埋めることは可能であると考えています。次回、本格的にこの教理について書かせていただきます。
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