ご承知のようにトランプ氏が米大統領選において勝利を得ましたが、このことに関する報道の多くがあまりにも表層的で一面的なので、聖書的な価値観を基に、少し異なる観点を提示させていただきたいと思います。
今回米国の内陸を中心に、多くの白人クリスチャン層がトランプ氏を支持しました。メディアではトランプ氏は女性蔑視的であり、離婚を繰り返し、人種差別的であるとレッテルを張られていますが、なぜこのような人物が多くのクリスチャンに支持されたのでしょうか?
投票に大きな影響を与えるといわれる、TV中継の直接討論において、経済、米軍の問題、2人の財団、人格的資質についてなどさまざまな点が話し合われましたが、その中でも注目したいのは、プロライフ(英: pro-life)とプロチョイス(英: pro-choice)についてと、LGBTについての2人の立場が明確に異なっていた点です。
プロライフ(pro-life)とプロチョイス(pro-choice)
プロライフ(pro-life)というのは、胎児の命を既に生まれた人間の命と等しく考え、妊娠中絶を許容しないという立場の考えです。そしてプロチョイス(pro-choice)というのは、女性の選択する権利を優先するという考えです。日本において、このような問題を掲げて選挙戦を戦うことは想像できないことだと思いますが、米国においては、「命」と「人権」に関する非常に重要なテーマです。
1973年に最高裁において、妊娠中絶を規制する米国内法の大部分を違憲無効とした判決が下されたときには、国を2分するほどの大きな議論になりましたし、命の行進と呼ばれる、大規模な反対運動がわき起こりました。
そして今回の直接討論の場で、トランプ氏は、人工妊娠中絶(特に後期)は、胎児の命を奪うものであり、反対であると語り、プロライフの立場であることを明らかにしました。そしてヒラリー氏は、それは非常に苦しい選択であるが、当事者が決める問題であり政府なり法なりが関与すべきでないとし、プロチョイスの立場であることを明確にしました。
そして、カトリック・プロテスタントを含めたキリスト教の伝統的な立場は、「命」は神様から与えられるものであるから、いかに胎児であったとしても、それは守られるべきだというものです。
もちろん、レイプされて妊娠してしまうケースなどもありますので、ことは非常にデリケートであり、複雑な問題です。また、プロチョイスを支持する方々にしても、赤ちゃんの命を決して軽く考えているわけではありません。どちらの立場の人も苦渋と悲しみの中で、いずれかの主張をしているわけです。もちろん、どちらが正しいのか分からないという方も、多くいらっしゃいます。
LGBT、同性婚の合法化について
LGBT(エル・ジー・ビー・ティー)とは、女性同性愛者(レズビアン、Lesbian)、男性同性愛者(ゲイ、Gay)、両性愛者(バイセクシュアル、Bisexual)、性同一性障害を含む性別越境者など(トランスジェンダー、Transgender)の人々を意味する頭字語(とうじご)です(Wikipedia参照)。
プロライフとプロチョイスよりも新しい問題(イシュー)は、LGBT(性的マイノリティー)の方々に関して、同性婚を認めるかどうかというものです。直近のニュースにおいては、トランプ氏は同性婚を認めるとした最高裁の裁判について、「すでに結論が出ている」と承認する考えを示しましたが、選挙期間中においては、「最高裁の判決を見直す必要がある」と主張していました。
これに対して、ヒラリー氏は今回の選挙戦において、同性婚を承認することを前面に打ち出してきました(かつてはヒラリー氏も「結婚は男女のものだ」と主張していましたが)。直接の討論会においても、頻繁に「LGBTの方々」の権利が守られるべきだということを唱えてきました。
では聖書は、同性の性的な関係についてどう語っているのでしょうか。
「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです」(ローマ1:26、27)
この聖書箇所を今日の私たちが、どのように受け止めていかなければならないのかというのは、また別の問題としてあるのですが、現実問題として、聖書的な価値観を堅持している米国内陸の方々が、「最高裁の判決を見直す必要がある」としたトランプ氏を支持したという面は否めません。
2つの「良識」の衝突
日本のメディアは、米国の国民は「良識」よりも、トランプ氏の経済手腕を優先したとか(もちろんそういう人もいたでしょうが)、最終的には米国人も「良識」があるので、ヒラリー氏が勝つと思ったのですが・・・、などと単純に語っていますが、「良識」や「正義」というのは、1つではありません。各自の信条や考え方、人生哲学、宗教によって、「良識」にはズレが生じます。そしてそのズレが表面化するときに、非常に大きな衝突が生まれるのです。
今回取り上げた2つの問題は、米国の人々にとって「命」や「人権」「公平さ」などに関する深層的な課題であり、どちらの立場の方々も自分の信念や良識に基づいて、悩みつつ、自分が正しいと思うことを主張しています。また迷い、立場を変えたりもしています。それは両候補も同様です。もちろんトランプ氏の個人の資質を疑い、「良識」に従ってトランプ氏に反対した人もいるでしょうが、多くの人はそれらの「私事」以上に、これらの課題をより重視したということです。
同性婚については、現代的な感覚では、みな平等でいいじゃないか、当然認めるべきだと思う方もいるかもしれませんが、同性の結婚が認められる延長線上には、彼らが養子を迎え入れる権利も含まれています。そうすると今度は、その子どもの立場に自分を置いて考えてみる必要があります。事は簡単ではありません。LGBTの方々の中にも、結婚や養子を持つことまでは主張すべきでないという方々もいるくらいです。
私はトランプ氏の人となりを知りませんし、彼が大統領として今後成功するかもよく分かりません。またプロライフとプロチョイスや、LGBTの方々の同性婚について、私の私見を主張することも今回の趣旨ではありません。また今回の聖書箇所の内容が、あまりにも現代的な価値観と相いれないと思われる方もいるかもしれませんが、それを語ることも今回の論旨ではありません。
ただこの2つの社会的イシューが、多くのクリスチャンがトランプ氏を支持することになった小さくない要因であるという点と、「良識」や「正義」というのが、1つではなく、多くの人が苦悩しながら、模索し、時代とともに移り変わっているという点を指摘したく書かせていただきました。つまりトランプ氏に投票した少なくない方々が、経済成長への期待、排外主義などとは別の次元で、自身の「良識」や「正義」に基づいて投票したということです。
一言加えさせていただくならば、そのような中にあって、日本においてクリスチャンである私や、読者の方々も、どのような聖書的価値観・理解を持つべきなのかということが問われると思います。もちろんクリスチャンでない方々にとっても、これらの課題をどう自らが捉え、また子どもたちに説明していくかというのは、大きな課題であるはずです。
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