前回、号外的にトランプ大統領誕生の影響を簡単に述べさせていただいた。多くのレスがあり、また短時間にかなりの方がご覧いただけたということで、大変ありがたく思っている。
トランプを支持したのは白人福音派?
当選後のトランプ氏の情報は各方面から聞こえてくるが、どうも気になる論調がある。それは、「トランプ氏を支持したのは、白人の福音派だった」というもの。
【参考記事】
■ 白人福音派、トランプ氏に勝利手渡す 81パーセントが支持
■ オバマ米大統領の元信仰顧問「クリントン氏は白人福音派とカトリックを無視した」
確かに出口調査や当選後の福音派牧師らから、「実はトランプ氏を私たちは支持していました」という声が上がっているのは事実である。そのように報じる海外のキリスト教メディアの翻訳記事が本紙にも掲載されている。基本的に選挙後の考察は、おのおのの立場から行うことでいいのだから、それにあれこれ注文をつけることはしない。しかし、どうしても看過し得ないのは、「福音派」という言葉がおのおのの視点から、一人歩きしていることである。
ここまでこの「福音派」にこだわるのには理由がある。それは、私がその分野の研究を志した者であるということ。そして私自身が(大きな意味で)福音派の牧師であるということ。この2点である。
この分野に関して書物を著している立場から言わせてもらうなら、「福音派」という用語をどう使うかに関して、慎重になるべきと主張する理由も伝えなければならない。このあたりを今回は述べてみたい。
研究者の間ですら「福音派(Evangelicals)とは誰か?」の定義は一致していない
前回指摘したように(参考記事:キリスト教から米大統領選を見る(18)トランプ氏が勝利 福音派の政治力の衰退と反知性主義)、福音派の宗教性は政治の世界では弱くなってきているように私には見えている。その理由は「福音派」が米国で注目され始めたその歴史とも関連している。しかし、このことを述べる前に、まず「福音派」という言葉が実際にはどのように用いられているか、その現状をつまびらかにするところから始めたい。
よく「出口調査によると・・・」という言い回しを聞くことがあるだろう。そこでは「誰に投票しましたか」に加えて、「あなたは福音派ですか?」という質問がなされる。それに回答者は「はい」か「いいえ」で答える。その結果が確かに実際の開票結果と一致することが多いため、有効な手段とみなされている。
しかし、質問者と回答者の間で予期せぬズレが生じている可能性があることも忘れてはならない。それは「福音派」という言葉の意味するところを双方がどう捉えているか、のズレである。
英語で尋ねる場合は特にそうである。「Are you Evangelicals?」と尋ねられたとき、回答者が Evangelicals をどのように考えているのか? 細かいことのようであるが、実はこれは大変な問題をはらんでいる。なぜなら、そもそもEvangelicalsとは誰のことを指すのか?この問題は、専門の研究者の間ですら一致がない。マスコミ関係者にとっての「福音派」とは、やはり1970年代後半から90年代にかけて、一致団結した政治的な意味での Evangelicals だろう。
私が同志社の院生であったとき、この話題がゼミの議論で中心になったことがある。その時、この福音派研究の専門であった指導教官は、「質問者と回答者との間に共通の Evangelicals がないんだよなぁ」と嘆いておられた。
質問者が「福音派ですか?」と問うとき、回答者が「あなたは定期的に教会に通っているクリスチャンですか?」程度にしか受け止めていないことがままあるからである。それくらい「福音派」はあいまいで広範な領域を覆ってしまう厄介な概念である。すると質問者が求めている政治的な「(狭義の)福音派」の中に、回答者の主観的な「(広義の)福音派」が多数紛れ込むことになり、結果「あなたは福音派ですか?」という質問に「はい」と答える率は高くなる。
教派教理を越え「聖書のみ」という原則でゆるやかな一体感を形成している福音派
そもそも米国の福音派とは、従来の教派区分では測りきれない存在として登場してきた。例えば、「ルーテル派と長老派の違い」と言えば、教理的差異で示すことができるだろう。しかし、福音派はこの教理による差異化では示すことがほとんどできない。なぜなら異なる教派であっても、目の前に存在する「問題」に対して、同じ観点を持つ者同士が結束し、いつしか集団化していく過程を経ることで、「福音派」は生まれてきたからである。
19世紀半ばに新神学が米国へ流入されるまでは、教理的な相違で各教派を語ることができていた。しかし米国福音派は、20世紀前半に新神学やモダニストたちと繰り広げた論争を通して、聖書を字義通りに受け止めるという意味での「聖書信仰」に固執した過去を持っている。
その時代、つまり彼らの先代たちは、自らを「根本主義者(fundamentalist)」と表現し、その具体的な中身を精査しないままで「聖書のみ」という原則を打ち立てたのである。そして矛盾や食い違いに見える事柄を、何とか説明しようと努力を積み重ねてきた。しかしその努力は、統一の見解を導き出すことにはならず、むしろ多種多様な聖書解釈や強調点を生み出す結果となってしまった。
そのため福音派は、第2次世界大戦後の時代性を取り入れながら、教理解釈の違いを指摘することなく、「聖書のみ」という曖昧模糊(もこ)としたスローガンの下、実際にはゆるやかな一体感を形成していったのである。彼らの「かすがい」となったのが、1960年代以降に生み出されたさまざまな社会現象への反対表明であった。
具体的には「公立学校での祈祷の禁止」に端を発し、ニューライトらが巧みに「人工中絶」「同性愛」への反対へと、福音派の意識を向けさせたことである。これらを「聖書的に正しいことではない」と解釈する一部の人々が先鋭化し、これに引きずられるように福音派は80年代以降に政治的躍進を遂げることになった。
「政治化した福音派」は「福音派」のごく一部にすぎない
ここで覚えておかなければならないのは、「政治化した福音派」は福音派内のごく一部だということである。言い換えると、出口調査で自らを「福音派」と称するほとんどの人々は、Evangelicals という信仰の基準で候補者を選ぶのではなく、むしろ実生活の必要や不足を候補者がどのように満たしたり補ったりしてくれるか、という基準で選んでいるということである。
マスコミはこのあたりにどうもドラマチックな思い入れが強くあるようだ。政治というフィルターを通して「福音派」を理解しようという姿勢である。だが、それだけでは福音派に近づくことはできない。
近年の大統領選挙では、初めから「福音派」枠を設定して、各回でのその動向をトレースしようとするきらいがある。それほど80年代から90年代までの福音派は目立つ存在であったということであろう。しかしこの概念は、前述したようにその定義も解釈も流動的で恣意的なものである。今回の選挙を評価するのに、このフィルターが使えるかどうか。それはさらなる吟味が必要であろう。
「福音派」とは誰であり、一体何であるのか?
では結論として「福音派」とは誰であり、一体何であるのか?
今回の表題(「トランプを支持した福音派」とは何を意味するのか?)に答えるとするなら、それは「民主党のヒラリー氏に嫌悪感を抱き、その表明に宗教的な用語を使うことを好む有権者群」ということになるだろう。その中に、聖書信仰を抱く「福音派」の一部も含まれる。
しかし、だからといってトランプ氏に投票した者が福音派だ、と言い切ることは早計である。むしろ宗教的な関心から今回の選挙に臨んだであろう、多くの無名の福音派の声にこそ、私たちは目を留め、耳を傾けるべきである。
トランプに対する福音派メガチャーチ牧師の言葉
最後に私が懇意にしている南部の福音派メガチャーチ牧師の言葉を紹介したい。彼は一貫してトランプを支持してこなかったし、今もその姿勢は変わっていない。一方で中絶には反対しているし、同性愛にも紳士的な姿勢を保ちつつも決して手放しで歓迎はしていない。いわゆる「聖書信仰」に立った福音派牧師である。
「保守的なクリスチャンとして、道徳性や倫理について今までほとんど顧みることをしてこなかった1人の男性(トランプ)に、今後私は深い関心を抱くことになるだろう。彼の選挙戦が終わるに当たり、私の祈りはこうである。『どうか彼がキリスト信仰に関心を抱き、私たちを選び出してくださった主を証しする生き方に心を向けることができますように』」
何度も読み返したい言葉である。
これから先、世論はトランプを持ち上げるだろう。そしてそれを努めて行うのは、自らを福音派と称する保守的クリスチャンとなっていくはずである。次回はこのあたりの構図をつまびらかにしていきたい。
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