震えている。こんな感覚は久しぶりである。「大逆転」にふさわしい展開。しかし、決して拍手喝采とはいかないが・・・。
まさにこの原稿を書いている時間、同時刻にドナルド・トランプ氏、そして副大統領となるマイク・ペンス氏が「勝利宣言」を行っている。ついに、まさか・・・、いろんな形容があるのだろうが、いずれにせよ来年1月に「トランプ大統領」が誕生する。これによって、世界は大きな転換期を迎える。特に日本においては、防衛問題や環太平洋戦略的経済連携協定(TTP)に関して、今後大きな再考を求められることになるだろう。
各メディア、専門家はこぞってこれから、「トランプ大統領」について論じるだろう。それに先んじて、今回の選挙に関して神学的立場から3点述べさせていただく。今後の連載で詳細を語ることになる。いわば今回のコラムは「号外」といえよう。
福音派は政治世界における力を確実に失いつつある
1980年代に隆盛した福音派。彼らの力は大統領のキャスティングボードを握るほどの力となり、そして国家規模での「道徳」の推進という名の下に、キリスト教的価値観を浸透させていった。それが中絶禁止であり、同性婚禁止であり、公立学校での祈祷問題であった。これらを「行き過ぎ」と評する声はあった。しかしそれでも、宗教的なトピックスを政治的な論点とするだけの力があった。そしてこれらのトピックスをまとめるなら、「神の前に正しく立てる者たれ」というメッセージを人々は訴えていたといえよう。
しかし今回、トランプ氏の発言は、彼らが主張してきた80年代の「道徳」に照らし合わせるなら、否定されてしかるべきである。真っ先に蹴落とされていただろう。しかし、その彼がついに米国の大統領になった。これは単に白人低所得者層が怒りを抱き、既存の政治に見切りを付けた、というようなものではないだろう。福音派が政治の舞台に上がることができたのは、彼らの宗教的価値観が国家全体に共鳴し得たということである。ところが今回、福音派の多くはトランプを嫌っていた。しかし彼が勝利したということは、80年代から受け継がれてきた福音派の政治的な力は、他の要因によって鈍化させられてしまったということであろう。
そういった意味で、政治の世界における信仰の在り方は、従来のような教派教理から直接的に導き出されるものではなくなってきたといえよう。
米国の分断がさらに激しくなり、その流れはキリスト教界にも迫ってくる
福音派の政治力を奪ったもの、言い換えると今回の選挙で人々が最も焦点としたトピックスは、やはり経済問題であったということである。これは米国における貧困問題、それを何とかしようとしたいわゆる「オバマケア」の是非に、人々の関心が向いていたということである。
考えてみると、宗教的な事柄は人間の根源的なものを取り扱っていながら、それを現実社会において顕在化させようとすると、どうしても経済的安定がなければ立ち行かないことになる。例えば教会が人々の心を扱うとしても、その教会が財政的に困窮していたら、どんなに素晴らしい働きも継続され得ない。それと同じく、キリスト教的道徳性からすると、決して受け入れられない「乱暴な男」であっても、現実的な危機感を喝破し、人々の内側に鬱屈(うっくつ)としていた思いを高らかに訴えられたとき、福音派という信仰では受け入れられなくても、一市民として彼の政策を受け入れた者が相当数いたということである。彼らの中に葛藤はあったはずである。しかし宗教性を問題にする以上に、彼らを取り巻く経済的な悲壮感は、彼らをトランプ支持へと駆り立てたのだろう。
しかし一方で、フェイスブックなどを見ていると、やはり「宗教性」を優先させて、トランプ氏の人となりを批判する熱心な福音派も存在する。加えて、ヒラリー・クリントン氏を支持した女性層とヒスパニック、および現行の政治形態を良しとするリベラル思考の人々も存在する。
米国はこれから経済格差によってさらに分断傾向に陥るのかもしれない。これは多くの専門家が指摘している。この流れは恐らくキリスト教界にも浸透してくる。その時、自らの宗教性よりも現実的な経済問題で教会の中にも同じような分裂傾向が生まれないとは限らない。今後の動向に目が離せないだろう。
「反知性主義」を知性的に探究する必要が高まった
「トランプ勝利」の報を聞いたとき、真っ先に思い出したのは、森本あんり氏の『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』である。「これだけは読んでみたい神学書」のコーナーでも取り上げたが(参考:これだけは読んでみたい神学書(2)トランプ現象を前に『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―』)、森本氏が同書の中で述べる次の言葉は、今回の大統領選を踏まえるとき、さらにその重みが増してくる。
この言葉(反知性主義)は、単なる知性への反対というだけでなく、もう少し積極的な意味を含んでいる。(略)本来『反知性主義』は、知性そのものではなくそれに付随する『何か』への反対で、社会不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである。(略)その言葉の歴史的な由来や系譜を訪ねて意味の広がりと深まりを知るならば、もっと有意義で愉しい議論が期待できるだろう。
トランプ氏が反知性主義者であるかどうか、が問題なのではない。米国民が彼を大統領に選んだということは、知性そのものに付随する「何か」への反対がある種正当化され、そして歴史の次頁を開いたということである。ポリティカル・コレクトネスも抑止とはならなかった。レイシズム的な発言も、それを上回る反発の前には抵抗できなかった。ではその「何か」とは何なのか? 経済格差か? 政治家の隠ぺい性か? 既得権益なのか? これらが大なり小なり混ざり合って、反知性主義という一形態を取り始めていると考えるなら、森本氏だけでなく、この分野の研究がさらに深められることは、トランプ政権を評価し、予見する上でとても大切なこととなるであろう。
加えて言うなら、21世紀の「反知性主義」が、果たしてその由来に類する「健全さ」を示すか、それとも大衆の「不健全さ」を民主主義の悪しき側面が肥大化させたものになっていくか。その審判は次の4年を経る中で見えてくるだろう。
いずれにせよ、民主党の8年間は終わった。そして史上初の女性大統領の夢も、クリントン氏においてはついえてしまった。
さあ、次の時代がやって来る。そしてその新たな時代においても、きっとキリスト教的視点は、米国の根幹に関わる問題を透けて見せてくれるだろう。
次回からは、選挙の総括と展望をもう少し詳細に書きつづってみたい。とにかく、トランプ新大統領が来年に誕生します!
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