米国の“神の前の平等”としての反知性主義とは?
米国大統領選挙で共和党候補となったドナルド・トランプ氏が注目されるようになって、「反知性主義」という言葉が彼への評価としてついて回るようになった。どうもそこには知的なことを嫌い、それを生来の荒々しさで踏み倒して進む、というようなイメージがあるが、筆者が指摘する「反知性主義」論議はもっと「知性」的である。
本書は国際基督教大学の教授にして副学長の森本あんり氏(男性です!)の研究の成果が、平易な言葉と面白いエピソード満載で余すところなく開示されている。一般的に「大学の先生の話は面白くない」と思われがちだが、本書はそうではない。気軽に読めると同時に、分かりやすく米国の歴史がひもとかれている。ところどころで挿入される森本氏の「ツッコミ」が痛快である(ちなみに私が声を出して笑ってしまったのはチャールズ・チョンシーの「高価なかつらエピソード」である。53ページ参照)。
森本氏は、次のように本書の狙いを冒頭で語る。
「この言葉(反知性主義)は、単なる知性への反対というだけでなく、もう少し積極的な意味を含んでいる。(略)本来『反知性主義』は、知性そのものではなくそれに付随する『何か』への反対で、社会不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである。(略)その言葉の歴史的な由来や系譜を訪ねて意味の広がりと深まりを知るならば、もっと有意義で愉しい議論が期待できるだろう。本書はそのような探訪の旅を読者に味わっていただきたいと願っている」
本書が徹底してこだわるのは、平等主義と階級格差主義の相克(そうこく)である。ピルグリム・ファーザーズの米国上陸以来、米国が理想とする世界観がどのように変質し、またギリギリのところで堅持されてきたか。その理由と具体的な出来事が、「反知性主義」というフィルターを通して時代順に開示されている。
エリート化したプロテスタント社会への疑問から始まった“リバイバル(信仰復興運動)”
第1章では、ピューリタン入植時代の生活様式が描かれている。それは英国気風がそのまま米国に持ち込まれた時代であり、その風潮の中でプロテスタント的な大学が次々と生み出され、ごく一部のエリートがその学びに触れることで教会と社会の指導者となっていく道が開かれていたのである。
では、一般庶民はどうであったか。このあたりが森本氏のユーモアなのだろうが、長い礼拝でつい眠気を催してしまった人への対策とか、礼拝中のおしゃべり対策など、現代の教会もあまり変わりないな、と思わされるエピソードに思わずニヤリとさせられる。
しかし、このように高度な知的統制に服するだけでは、社会全体が立ち行かない。そこで従来の在り方を崩し始めたのが「反知性主義」ということになる。彼らが実際に何をしでかしたか? それが2章以降に度々登場する「リバイバル(信仰復興運動)」であった。知性的なキリスト教に対する感情的なキリスト教を提示したということである。
そしてこの運動は、その人物が知性的かどうかに関わりなく「全て神の前に平等である」とアピールした。その結果、リバイバルに触れた人々は、貧富の差や出自、学歴にとらわれない「平等主義」を体現する存在としてまとまり始めた。森本氏はこのリバイバルを「要は集団ヒステリーである」と一刀両断しながらも、2章のまとめでは「リバイバルこそがアメリカを作った、と言っても大げさではない」と肯定的な評価も与えている。
米国における「平等」とキリスト教
3章以降は、平等という理念を米国がいかにして実現させようとしたかについて、各時代の平等社会実現のために努力した人物を取り上げ、解説している。その中身は、確かに冒頭で言われていたように、決して知性を否定しているわけではない。むしろさまざまな創意工夫をしながら、いかにしたら現実的な平等を実現できるかに奮闘する人物伝となっている。面白いのは、これら全てにキリスト教、または牧師たちが多かれ少なかれ関わっているということである。あらためて米国はキリスト教国家なのだな、と思わされる。
米国における「神の前の平等」としての「反知性主義」と「アメリカン・ドリーム」
そして第7章で、反知性主義がどうして知性の支配に反対したのか、その理由が描かれている。それは知性そのものを否定したのでない。知性に付随する旧来の貴族的特権意識や権威に反発を表明していたのである。
彼らは米国にやって来たとき、ヨーロッパ的な階級組織は脱してきたはずであった。ところが、新天地でも依然として新たな特権階級は生み出されようとしていた。そこで起こったのがリバイバルである。ここで宗教的に神の前に平等であるという意識を再確認した人々は、常に旧来の知や権威が復興することを拒む戦いをしてきたのである。これが米国版の「反知性主義」の正体であった。
人が神の前で平等であるなら、実社会では平等な競争が可能となる、と彼らは考えた。誰もが自らの努力を積み上げ、才能を開花させることで成功を手にするいわゆる「アメリカン・ドリーム」の風潮は、反知性主義から生み出されてくる。「自らを助くるものを天(神)もまた助く」ということである。これは米国の特徴であると同時に、米国版キリスト教の特色だと森本氏は語る。
このように見てくると本書は、決して現在のトランプ現象とイコールで結びつけることができない「反知性主義」を言い表しているといえよう。われわれがトランプ氏の「暴言」や「珍言」に目を留めて、ポリティカル・コレクトレスすら無視する彼の言動から「反知性主義」と言うなら、これは誤りである。
言い換えるなら、「知性によって積み上げてきたもの、従来の在り方や一定のルールなどをどうでもいいとする考え方」という意味で「反知性主義」を用いるなら、それは正確ではないということである。むしろ「反知性主義」は、徹底した機会の平等化、自助の素晴らしさを謳(うた)う肯定的な概念なのである。
そういった意味で本書は、私たちが想定していたものを見事に覆してくれる。このどんでん返しが心地よい。2015年に手にした本の中で、最も刺激的で、最も「やられた感」を与えてくれた本であることは間違いない。
皆さんもぜひ手に取って見てもらいたい。
森本あんり著『反知性主義―アメリカが生んだ「熱病」の正体―』(2015年、新潮社)
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