共和党、民主党共に正副大統領候補が出そろった。いよいよ11月に向けて、最大のクライマックスを迎えることになる。両陣営ともネガティブ・キャンペーンを含めたあらゆる方策で「大統領」という栄冠を勝ち取ろうと躍起になっていく。
共和党・民主党両全国大会を終えて、1つの変化が起こってきた。共和党のトランプ氏支持が大きく伸びてきていることだ。彼の主張が受け入れられた、というよりも民主党側の不手際がそうさせているといえる。ヒラリー氏もまた民主党内をまとめきれていないということである。お互いがどこかに傷を負いながら、いよいよ最終ラウンドである。
さて、民主党・共和党の政策に大きな隔たりがあるのは分かるが、押さえておかなければならない幾つかのポイントの中で、数回にわたって「福音派」「宗教右派」「キリスト教原理主義者」を取り上げたい。これは今回の選挙の直接的な争点とはならないが、米国大統領という立場にある者なら、皆が意識しない訳にはいかない重要な要素である。なぜなら、ピューリタニズムに基づいたキリスト教の保守的な思想こそ、アメリカの原点(と思われている)であり、その在り方をめぐって米国は常に揺れ動いていると言えるからである。
米国のキリスト教原理主義とは?
まず一番強烈な印象を与える「キリスト教原理主義者」から見ていこう。この名称に皆さんはどんなイメージを持たれるだろうか?「原理主義者」は英語でFundamentalistとなり、「教理や教義にガチガチで時代錯誤的な輩(やから)」と思われがちである。
これはある一面においては真理である。しかし同時に忘れてはならないのは、この「教義・教理」は、歴史的に見るなら決して「不変の真理」ではなく、時代によって生み出され、同じく時代によって変節してきたということだ。
同志社大学の小原克博氏は、キリスト教だけでなく世界に存在するさまざまな「原理主義」を「変転する社会状況に影響を受けながら、一定の振幅範囲で『原理』の中身を形成」することであると述べている(『原理主義から世界の動きが見える』PHP新書)。
そういった意味では、時代の制約を受けながら生きる歴史的な存在でありながら、その意識においては普遍性を手にしているのだという自負を持った人々によって紡ぎ出される考え方であるとも言えるだろう。当然その在り方は、人々の注目を集めるし、これを題材にしたサブカルチャー(映画、小説、詩)は、米国において多く生み出されている。
映画「フットルース」で描かれたキリスト教に基づいた伝統と革新の対立
一例を挙げよう。1984年に忘れられない映画が公開された。「フットルース」というタイトルで、日米で爆発的にヒットしたダンス&ロック映画である。主演はケビン・ベーコン。舞台は米国南部の田舎町。そこはのどかな田園風景が広がり、ほとんどの人が毎週日曜には教会に通い、聖書の教えに基づいた生活を実践していた。
町の有力者たちは皆教会の長老で、教会の牧師は単に宗教的な指導者だけでなく、町全体を見守る、文字通り「羊飼い的」役割を果たしていた。そこに東部から1人の青年(ケビン・ベーコン)が引っ越してくる。
彼は常にヘッドフォンをつけ、ウォークマン(懐かしい!)を肌身離さず持ち歩いていた。彼のそのライフスタイルが騒動の原因となる。実はこの町では、数年前にロックを聴きながらお酒に酔った青年が事故を起こして命を落としていたことから、町を挙げて聖書に基づいたライフスタイルを徹底していたのである。
具体的には、賛美歌やクラッシック以外の音楽を一切禁止し、若者たちが夜に集まってダンスしたりお酒を飲む場所もその町には存在しなかった。当然、この青年と彼に共感した若者たちは、教会や大人たちとぶつかることになる。さあ、ここから彼らがどうやって音楽やダンスを取り戻していくのか。ここがこの映画のクライマックスとなっている。
ここで描かれるのは伝統と革新の対立である。具体的には、若者と大人、クラシックとロック、教会と個人の信仰との対比である。古き良きものを残しつつ、どうやって時代の流れに乗り遅れないようにするか、というまさに「古くて新しい問い」に対する1つの回答となっている。
80年代半ば、まさに福音派の全盛期に、時代の最先端の事象を絡めて「フットルース」のような映画が作られる国こそ、アメリカである。ちなみに筆者のオールタイムベスト3には、常にこの映画がランクインしている。
さて映画を見るなら、こんな町や教会が本当にこの世に存在するのか、と日本人の私たちなら思うだろう。しかし(残念ながら?)本当に存在するのが「アメリカ」である。そしてこれは80年代の古めかしい話ではなく、現代においても、同じような規律を家族や地域に強いる教会は確かに存在しているし、そこに集まっている人々の数も決して少なくない。
そしてマスコミを中心とするリベラル層は、彼らのことを「キリスト教原理主義者」と呼んだのである。正確に言えば、もともと彼らは自らを「福音派(Evangelicals)」と称していた。
福音派は1980年の大統領選挙で大挙して共和党のロナルド・レーガン候補に投票した。その効果もあって、レーガンは大統領選に勝利することができた。それ以後、福音派は「新宗教右派(Religious New Right)」と呼ばれるようになり、その頑なな信仰姿勢を揶揄(やゆ)する意味合いで人々から「キリスト教原理主義者」と呼ばれるようになったのである。
90年代以降、「新」が取れて「宗教右派」と称されることでこの用語は定着した。彼らは3つの名称(「キリスト教原理主義者」「福音派」「宗教右派」)を持つ集団として、一躍政治の表舞台に躍り出たのであった。
レーガン氏以降、ブッシュ(父)氏も彼らの支援を受けていた。一時、ビル・クリントン氏の民主党中道路線を挟むことにはなるが、その後の共和党ブッシュ(子)氏の2期を支えたのも80年以降の福音派、宗教右派、そしてキリスト教原理主義者である(この名称の整理は次回行う)。
その後、オバマ大統領の時代を迎え、一時の勢いに陰りが見えたとはいうものの、むしろ政治慣れしてしまった福音派は、そのアイデンティティーを宗教性ではなく政治的な保守主義に移すことで、共和党支持者の中に溶け込んでいき、現在に至っている。表だって自らの信仰をアピールすることはないが、胸の内に留めることで、実はその宗教的見地からの候補者選びは潜在化しているともいえよう。
彼らの中には政治的な生き方を身に付け、キリスト教保守派としてのアイデンティティーを前面に打ち出さなくなった者も確かにいる。しかし、彼らの多くは信仰というレンズを通して世界を見ている。
つまり大統領選挙においても、どの候補に入れることが「神の前に正しい選択」なのか、真剣に考えているのである。そして表面に見えなくなってきたからこそ、両陣営とも福音派をどのように取り込むかについて、80年代以降は常に知恵を絞らなければならない事柄となっている。見えない敵と戦うような不気味さも漂っている。
例えば前回の選挙では、モルモン教徒を公言していたミット・ロムニー候補が共和党の大統領候補となった。この時、ロムニー氏は「私はアメリカ人だ」と繰り返し、その宗教的背景にかかわらず、以前取り上げたような「見えざる国教(civil religion)」の枠組みで、福音派に向き合ったのである。結果的に勝利することはできなかったが、もし彼が「モルモン教徒」であることに無頓着であったなら、もっと大きな差が開いていたことであろう。
次回は「福音派」「宗教右派」「キリスト教原理主義者」の用語整理を行い、さらに彼らの歴史的変遷と、それにまつわる大統領選挙の在り方を見ていこう。
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