「銃規制」と「タラントンのたとえ」と「スチュワードシップ」(羊を養う羊飼い意識)
ついにトランプ氏が共和党全体の大統領候補に指名された。これによって共和党は大きな賭けに出ざるを得なくなった。さあ、大統領選挙本番である。
しかしその前に、テキサス州ダラスやルイジアナ州バトンルージュで起こった悲劇について、2回にわたって見ていきたい。そうすることで、トランプ氏指名の重みがより伝わることになるからである。
7月7日夜、テキサス州ダラスで悲劇が起こった。警官に向かって計画的な発砲が行われ、5人の命が失われた。これには大きく2つの問題が絡み合う。1つは人種問題。これは米国の宿痾(しゅくあ)と言ってもいい。
しかし、今回取り上げたいのはもう1つの問題。「銃規制」である。これについては、オバマ大統領が規制法案を2013年に上院議会に提出したが、あえなく否決されたことが記憶に新しい。
ここで日本人である私たちからすると、どうして銃規制がきちんと行えないのか? みんな銃におびえる社会で本当にいいと思っているのか? と考えてしまう。だが米国人はそう考えない。いや正確には、そう考えない人の数が決して過半数から減ることのないまま、21世紀を迎えたのである。
今回は、この銃規制の問題から、トランプ氏を支持するWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)層について考えてみよう。
映画「パトリオット」に見る米国建国時代と「銃を持つ権利」
「インディペンデンス・デイ」と同じローランド・エメリッヒ監督の「パトリオット」という作品を紹介したい。これはアメリカ独立戦争が題材となり、1人の男が家族のために戦いに身を投じる中で、いつしか愛国者(パトリオット)となっていくアクションドラマである。
主演のベンジャミン役にメル・ギブソン、そして物語の重要なカギを握る彼の息子役として、デビューしたてのヒース・レジャーが出演している。舞台はサウスカロライナ地方である。
物語では、ベンジャミンとその息子たちが戦争に参加するが、この参加の仕方がとてもユニークなのだ。というのは、彼らは今まで軍人としての訓練を全く受けたことのない、いわゆる「民兵」としてこの戦いに加わることになったからである。
考えてみれば当時、新大陸アメリカは正式な国家ではなかったため、「米軍」という正式な軍隊は存在しなかった。各植民地から、出自の異なる者たちがそれぞれの武器(主に銃器)を手に、自発的に戦いに加わってきたのである。
これをまとめ上げ、あの「大英帝国」と直接対決をしなければならなかったのだから、ジョージ・ワシントン司令官の心情は、決して穏やかではなかったであろう。結果的に「民兵連合軍」はイギリス軍を蹴散らし、ベンジャミン一家のように自ら国のために武器を取った者たちによって「アメリカ合衆国」は独立を勝ち得たのであった。
さて、ここで考えてもらいたい。独立国家が生まれたとして、その貢献者たる民兵たちから、銃器を取り上げることは果たして可能であろうか? 民兵は100パーセントボランティアで国家のために銃を手にしたのである。勝利の象徴たる彼らの銃器を、強制的に国家が取り上げることなどできなかったし、そんな発想も生まれてこなかった。
むしろその後に制定された合衆国憲法修正第2条では、「市民の武装の権利」として自衛のために銃を取る姿を「権利」として認めるほどであった。つまり、銃の扱いについては米国民たちの良識に委ねられたのであった。
この流れの中で、2つのことが確定した。1つは「国民に対する政府の権限」についてである。彼らは必要以上に個々人の生活を規制したり強制したりすることはせず、むしろ自由を保障するために公僕の働きを必要最小限にすることが求められたということである。いわゆる「小さな政府」である。
もう1つは、銃は単なる殺傷能力を備えた「武器」ではなく、「米国独立の象徴」と見なされたことである。米国では細かな手続きさえ踏まえれば、誰でも銃を売買することができる。この権利が米国民にはある。この事実こそ、米国がこの世に独立国家として存在する根源的な意味を象徴していたのである。
この前提を真剣に受け止めているのがWASPである。彼らは祖先の自己犠牲によって米国の土台が築き上げられたことを自負している。これを政府が規制し、抑止しようとすることは、米国がもはや独立以来の理念を打ち捨てることになる。だから、どんなに銃器による犯罪やトラブルが生じようとも、彼らは銃規制には反対する。
豊臣秀吉や明治維新政府などによって、たびたび「刀狩り」をされてきた日本とは、その国家の草創期からして異なっていることになる。このあたりを理解できないと、銃規制に関しても「正論」を訴えることはできても、真の「改善」を促すことは難しいと言わざるを得ない。
それでは、WASPがどうしてトランプ氏を支持するのかについて見ていこう。彼らに共通する意識は、「自分たちがこの国をつくった」というものである。その精神を自分たちは後代に伝えなければならない、と考えている。ここに米国保守主義の源泉があると言えよう。
こういう彼らが願う政府とは、先ほど述べた「小さな政府」ということになる。自分たちの活動や生活にあれこれと注文や規制をつけず、そして助けが必要な時だけ手を差し伸べてくれる機関ということになる。
米国人の意識の中の「タラントンのたとえ」の物語と「スチュワードシップ」(羊を養う羊飼い意識)
しかし、これは一面でしかないのである。なぜなら、このような政府が実際に存在できるとしたら、それは個々人の良識やモラルが一定水準に保たれ、健全に機能していることが証明されなければならないからである。このことにWASPも当然気付いていた。そして自分たちは大丈夫、と表明できる根拠を、彼らは聖書の例え話に求めたのである。
新約聖書でイエスが語る「タラントンのたとえ」がそれだ。この物語で、主人から異なる財産を預けられたしもべたちは、その能力に応じて財産(5タラントン、3タラントン)を活用した。しかし、最後の1人だけは、せっかくの財産(1タラントン)を預かっておきながら、それを用いることをせずに、地面に埋めてしまった。それを主人は責めた。そして、彼から財産を取り上げ、すでにもうけを出しているしもべにこれを託してしまう。
この物語の解釈はこうなる。「各々与えられた能力を自発的に用いるなら、それは神が喜ばれ、必ず祝福を与えてくださる。しかし、もしうまくいかないなら、それは与えられた能力を用いずに地面に埋めておいたこのしもべの自己責任である。だから、貧富の差がついても仕方がない」
なぜならイエスも「持っている者はさらに与えられ、持っていない者は持っているものまで奪われるであろう」と語っているではないか。彼らにとって、自己責任と自発性があってはじめて「神の国」の住人となる資格が与えられることになるのだ。
今、この解釈の適合性は問題ではない。彼らはこのような解釈で、自分より後にやってきた移民たちが貧しい暮らしをしていることから目を背け、自分たちが既得権益に浴することを正当化してきた、ということである。
この考え方を「スチュワードシップ(羊を養う羊飼い意識)」という。もちろんスチュワードシップには良い側面もある。これについては、次回述べたいと思う。いずれにせよ、このような考え方をする者が多ければ(過半数であれば)、「小さな政府」は機能することができる。
トランプ氏が「移民を排斥し、他国の警備から手を引く」と訴えることは、WASPたちにどう響くであろうか?「かつてのWASP全盛期がもう一度復興するのでは?」というはかない希望を見いだす者が生み出されることは想像に難くないだろう。
もちろんこれがWASPの中でもブルーカラー層を中心に、というところが現代的なのだが・・・。これにはもうひとひねり考察が必要である。なぜなら、一見麗しく見える「タラントンのたとえ」ではあるが、いつしか自分たちが最後のしもべになってしまっている、という現実を突き付けられているWASPたちは、次第に多くなってきているからである。
この辺りは次回、もう少し突っ込んで考察していきたい。
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