「アメリカン・ドリーム」と政教分離 その2
ドナルド・トランプ氏は米国の「帰ってきたヒトラー」になるのか?
話題の映画「帰ってきたヒトラー」
英国のEU離脱、バングラディッシュでのテロなど、直接間接を問わず、難民、移民問題がかしましく取り沙汰されている現在。ブラックユーモアに満ちた映画が公開された。「帰ってきたヒトラー」である。
これは、現代にタイムスリップしたヒトラーが「ヒトラーのモノマネ芸人」としてメディアに登場し、ドイツ国民が「口に出して言えない本音」を闊達(かったつ)に語る中で人気者になっていく、という内容である。
当初、コメディーだと笑っていた観客は、物語が進行して次第にナチズム的ヒトラーがイニシアチブを執っていくさまを見せつけられ、笑っていた自分もいつしか「ヒトラー親派」となっていたことにハッとさせられるという秀作である。
これはドイツ映画だが、ここで扱っている人間の心情は米国でも変わりはない。特に米国大統領選挙に共和党公認候補となるドナルド・トランプ氏に対してこの「ヒトラー的イメージ」を重ねて評する者が後を絶たない。
さて、果たしてトランプ氏は「ヒトラーの再来」となるのか。もちろん国民が選出するならどんな人でもその立場に就くことができる、という「アメリカン・ドリーム」を体現しているのが「アメリカ合衆国大統領」である以上、政治的な観点からは「十分あり得る」ということになろう。
しかし、宗教史な観点からこの問題を掘り下げていくならば、むしろ事態は、国家(アメリカ)が一個人(トランプ氏)によって変質するというより、米国に内包されるメカニズムがトランプ氏個人に変革を迫る結果になるのではないかと推察する。
トランプ氏には多くの「暴言」がついて回る。これはマスコミから彼に対して突きつけられた「イエローカード」である。例えば2015年6月16日、彼の正式な大統領選挙への出馬表明の時に、メキシコ移民を「やつらは問題のある人たちを大量にアメリカに送りつけ、その問題を俺たちに押しつけている。薬物、犯罪。やつらは強姦魔(レイピスト)だ」と攻撃した。
同じ演説の中で「俺は(アメリカとメキシコの国境に)でっかい壁を造る」と宣言。これが米国版「万里の長城」だとしてマスコミに取り上げられた。そして、ローマ教皇フランシスコが彼の発言に苦言を呈するという異例の事態を引き起こした。
さらに同年12月7日、カリフォルニア州で過激派組織「イスラム国」(IS)に感化された夫婦が銃を乱射し、14人が亡くなった事件を受けて、トランプ氏はプレス向けに「アメリカに入ってくるイスラム教徒の全体的かつ完全な締め出しを提案する」と表明した。
この発言がいかに当時の「ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)」から逸脱しているかは、2011年の9・11から1週間後に、ブッシュ大統領(当時)が行った記者会見と比べることで明らかになる。
彼はワシントンのイスラム教センターに出向き、そこでイスラム指導者たちと共に祈った。政界最右翼と思われていたブッシュですらそうであった。しかしトランプ氏は(確かに15年以上経過しているとはいえ)、全く反対の立場を表明したのである。
このような言動が、冒頭の「帰ってきたヒトラー」を連想させることになるのだろう。「茶番だ」「ただのトリックスターだ」と笑っているうちに、本当に「トランプ大統領」が誕生するかもしれない。まさに映画の筋書きのままである。
確かに目の前で繰り広げられている「トランプ劇場」は活況で、さまざまな人物が忙しく出入りしている。しかし、トランプ氏が「アメリカ合衆国大統領」となるとしたら、それはいやしくも200年以上この国家を動かしてきた根源的なメカニズムを体現する側に回るということである。
私は、彼が最終的には国家に対して恭順にならざるを得ないのでは、と思う。
米国の「政教分離」と「見えざる国教」
前回少し取り上げたが、米国は「政教分離」ということが他の先進国とは質的に異なっている。通常「政教分離」とは、「政治と宗教の分離(Separation of Politics and Religion)」を意味する。つまり政治の世界に宗教的諸要素を加味してはいけない、ということである。
しかし、米国のそれは、「(特定)教会と国家との分離(Separation of Church and State)」であり、政治が特定の宗派(教派)に便宜を図らないことを意味する。宗教が政治に関わることを否定するものではないということである。有権者は候補者の宗派を気にするし、投票を決断させる指標の1つと見なすことが奨励すらされている。
ここにさらにもう1つ、米国的な「政教分離」を擁護する大原則が存在する。これを1967年に宗教社会学者ロバート・ベラ氏は「市民宗教(Civil Religion)」と表現した。多民族国家アメリカを統合し、政治に宗教的次元を付与してきた「特定の宗教」を「アメリカの市民宗教」と呼んだ。
これを神戸女学院院長(わが恩師でもある)森孝一氏は「見えざる国教」と呼んだ。ベラ、森両氏が指摘しているのは、ある国家および民族にアイデンティティーや存在の意味を与える特定の宗教体系、あるいは価値体系が存在するということである。
米国の場合、従来はこれがプロテスタント的キリスト教であった。この「見えざる国教」がしたたかなのは、キリスト教的なニュアンスを醸しながらも、これを決して「イエス・キリスト」や「ヤハウェ」と表現していないことである。
歴代の大統領は「神(God)」とだけ言う。するとカトリック教徒、プロテスタント、ユダヤ教徒らは、各々の「神」を想定することで宗教的次元から政治にコミットすることができる。
今ではここにイスラム教徒も加わった。だからブッシュはイスラム指導者と手を取り、祈ることができた。「見えざる国教」とは、多種多様な背景を持った者たちの「違い」を鈍化させ、「共通性」を拡大する機能を果たす。
その意味において、米国の本質を担う概念である。この概念の上に「政教分離」が存在することで、どの宗教、どのキリスト教の教派からでも、皆の代表は選ばれ得ることになる。
「アメリカン・ドリーム」が単なる「立身出世」ではなく、「アメリカの夢」であるゆえんは、この「見えざる国教」「(特定)教会と国家の分離」という柱の上に成立していることである。
この2つの概念は「統合作用」として働く。違いを強調するのではなく、緩やかに包み込むことに寄与する。もちろん包み込むといっても、異質な者全て丸のみするわけではない。その目的にそぐわない部分は、切り捨てられることになる。
だからテロや分離主義的な考えは、ある限界を越えては機能できなくなる。そういった自浄作用が米国には存在する。ドイツをはじめとするヨーロッパ諸国であれば、米国のように人工的な「作用」を打ち壊す文化的・民族的力(または伝統)があろう。
しかし、米国に至ってはそうではない。米国に生を受け、この「見えざる国教」と「政教分離」によって育まれた「アメリカ国民」であるなら、やがてはこの巨大なメカニズムの前に恭順せざるを得ないのではないだろうか。
そういった意味で、ドナルド・トランプ氏は「帰ってきたヒトラー」とはなり得ないと私は考える。マスコミや多くの国際政治の専門家は、この米国人を誇張して評価しようとしてはいないか。アメリカ国家の「王=大統領」となるなら、上述したようなメカニズムに恭順となるか、または逸脱することで弾劾されるか、そのどちらかしかないと思う。
次回は、トランプ氏が語る移民政策やイスラム教徒へのまなざしについて、米国政府が今まで行ってきた外交政策を取り上げてみたいと思う。
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