映画「ジーザス・キャンプ」
2006年、小規模公開ながら米国で話題を呼んだドキュメンタリー映画がある。日本ではほとんど顧みられることはなかったが、後に映画評論家たちが「問題作です!」と熱く語り出したことから、現在ではDVDレンタルショップでカルト的な人気を誇っていると聞く。
タイトルは「ジーザス・キャンプ~アメリカを動かすキリスト教原理主義~」。90分弱で、映画としては短いが、その内容はとても過激である。本作は、2004年の大統領選挙で共和党ジョージ・W・ブッシュ候補を応援するキリスト教保守派の在り方を批判する目的で作られた作品である。
とある田舎のラジオ局。そこで1人のDJが「このままでは福音派の奴らの思うツボだ。米国が奴らに乗っ取られてしまう!」と叫ぶところから始まる。そして映し出されるのは、夏休み期間を利用して小中学生に対して行われる「サマーキャンプ」の様子である。
このキャンプを主宰しているのがペンテコステ派の女性牧師で、数十人のスタッフと共にキリスト教の教えを説く。しかしその内容たるや、「中絶禁止」「同性愛撲滅」「進化論は間違っている」「ブッシュ大統領は神に選ばれた特別なお方」といったトピックスが満載である。私たちが一般的に考える「キリスト教」の範疇(はんちゅう)をはるかに越えている。
しかし、ここで断っておかなければならないのは、この映画は大きなバイアスが初めからかけられて製作されたということである。ブッシュ政権の在り方、それを背後で支えている「福音派」という存在を、貶(おとし)める目的で生み出された、いわば民主党のプロパガンダ映画である。
この前提を理解せずに鑑賞するなら、米国には「福音派」という恐ろしい宗教洗脳集団が幅を利かし、その彼らが米国大統領をも操って、国をおかしな方向へ仕向けようとしている、と容易に受け取ってしまうことになる。
繰り返すが、この映画は劇薬であるので、処方箋を間違ってはいけない。その前提だけしっかりと抑えるのであれば、逆にこれほど米国における政治と宗教の混乱ぶりを面白おかしく伝えてくれる作品はないと言えるだろう。
そして、こんな状態(劇中で行われているキャンプの政治的一側面、さらにこんな映画で共和党のネガティブキャンペーンを実践する民主党シンパの在り方)が今からほんの10年くらい前には実際に米国で展開されていた、ということを知ることができる。
メディアで区別されずに使われ続ける「福音派」「キリスト教原理主義者」
前回、筆者はあえて「キリスト教原理主義者」という言葉をそのまま使った。しかし厳密にいうなら、この用語は現在でも用いられるなかで最も不明瞭な名称の代表格である。上記のようなキャンプが実際に行われているとして、その集団を言い表すのに用いられた全ての用語(「福音派」「ペンテコステ派」「原理主義者」「宗教右派」「キリスト教保守派」)は歴史的考察を加えられないまま、個々人の感覚的な選択で無自覚に用いられてしまったからである。
例えば、新聞などで大統領選挙に関する記事を読むとき、どこまで厳密に「福音派」と言っているのか、どんな意味を込めて「キリスト教原理主義者」と表現しているかが分からない。そしてレッテルとしての言葉だけが独り歩きしてしまうことになる。すると候補者の宗教性や立場を説明するとき、とてもぼんやりとしたお互いの主観的なイメージを交換するに終わってしまう危険性が高い。
こういった視点から副大統領候補となった共和党ペンス氏、民主党ケイン氏の略歴紹介および彼らの宗教性について書かれた新聞記事を見てもらいたい。上記の名称が何の違いも意識されないまま、列挙されているはずである。
筆者は、米国福音派研究を志したものとして、ここできちんとした言葉の定義をしておきたい。そうすることで、今後の両党大統領候補の発言や、それに対する人々のコメントなどを、より精度を上げて読み解くことができると期待する。
全く異なる2つの「キリスト教原理主義者(Fundamentalist)」
まず一番よく耳にする誤解は、「原理主義者」という用語である。英語では「Fundamentalist(ファンダメンタリスト)」となる。これは一般的に「原理主義者」と訳され、その宗派における経典や教理を絶対的基準として生きる人のことを指す。
しかし米国には、このファンダメンタリストに相当する集団が、異なる時代に2タイプ存在していた。まず1920年代のファンダメンタリスト、そして1980年代のファンダメンタリストである。
前者は聖書の記述に対する神学的なこだわりからリベラリズムと対立した。しかし、その様相は決して暴力的ではなく、むしろ物静かに聖書を読みふける紳士的な存在であった。だから彼らに対して「根本主義者」という名称を与える識者も多い。やがて彼らは第2次大戦後、「福音派(Evangelicals)」としてキリスト教保守派の立場を得ることになる。
一方、後者は根本主義的な信仰姿勢を持ちつつ、レーガン政権以降に現れた。聖書で語られている道徳的価値観を政治的に現実適応しようとした者たちである。彼らに対して、マスコミはファンダメンタリスト、そして訳語として日本では「原理主義者」が充てられた。
しかし、妊娠中絶反対を叫び、同性愛を禁じ、さらに宗教的に保守的な政策を大統領に行ってもらいたいと願っている彼らは、「原理主義者(Fundamentalist)」という呼び方を気に入らなかった。彼らは自分たちを1970年代以降人気を博しつつあった「福音派」と称することを好んだのである。「ジーザス・キャンプ」でやり玉に挙げられているのは、こちらの集団である。
こうなると話はややこしくなる。なぜなら、一方で1920年代の「根本主義」時代の良き保守的伝統を受け継いだ「福音派」なる集団が存在し、その一方で、物静かに聖書を読みふけるのとは全く反対に、政治的な活動に身を投じる「福音派」が存在することになったからである。この区別は極めてあいまいで、グラデーショナルなため、「ここからが福音派」という区分をつけることはできない。
するとこの事情を知らない人々(主にマスコミ)はどう思うか?「自分たちを『福音派』と称する人々が、中絶手術を行う医師に暴行を加えた」とか「進化論を教えている書籍を公園で大量に焼き払った『福音派』という輩がいた」などという記事が1970年代後半から80年代にかけて出回ることになる。すると、そのニュースを見た人々は、「福音派全体が原理主義者なのだ」と捉えてしまう。
こうして「福音派=原理主義者」という図式が出来上がり、これに政治的な意味合いが込められ、冒頭の「ジーザス・キャンプ」のような映画が出てくることになる。さらに筆者のこだわりとして付け加えておくなら、劇中に登場する牧師は「ペンテコステ派」であって、厳密な意味では「福音派」ではない。しかしこのあたりも全く検証されないまま、マスコミや時には宗教社会学の識者までもが曖昧模糊(もこ)とした「キリスト教原理主義者」という用語を主観的に用いているのが現状である。
これから大統領選が本格化する。その中で、政治的な意味合いで候補者を人々が「原理主義者」と揶揄(やゆ)する場面も出てくるだろう。特に英語から日本語に訳したものを元にして新聞雑誌記事が書かれる日本では、このような傾向が今後強まってくると言わざるを得ない。
しかし私たちは、このファンダメンタリストに関して、上記のような複雑な歴史が存在したことを認識するなら、その論調のウラを読むことができるはずである。「米国キリスト教は原理主義だ」とか「だからキリスト教は怖い」という日本独特のステレオタイプの論調に対しても、きちんと歴史的考察を踏まえて反論することができるはずである。
次回は「宗教右派」と「福音派」の違いについて、見ていこう。
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