共和党が大変なことになっている。党大会を経て、いよいよ民主党とガチンコ対決へと向かうはずが、やはりトランプ氏を支持できないということで造反を表明する大物議員たちが次々と現れている。そしてついに無所属で大統領選挙に立候補する者が登場した。元CIA職員で、モルモン教徒のエバン・マクマリン(Evan McMullin)氏(40)である。
おそらく知名度や支持団体のスケールでは、トランプ、ヒラリー両氏にかなわない。しかし、反トランプの共和党保守層の受け皿として「名乗りを上げられた」事実は注目に値する。こういった動きが起こること自体、今年の米国大統領選挙は近年まれに見る異常事態が発生しているということだろう。
さて、この出来事が示していることは何か? それは、トランプ氏もヒラリー氏もまだ「大統領」ではなく「大統領候補」という立場にあるということである。「大統領」とは、国の最高司令官という意味で「王様」であることは間違いない。しかし、それは当選した後に与えられる称号であって「大統領候補」である間は有権者の動向によって大きく左右されることになる。
こんな当たり前のことが、今まではあまり注目を浴びることがなかった。党大会で指名を受けたらいよいよ「決勝戦」で、2つに1つしか選択肢はないと思いがちである。しかし、候補者は有権者に「投票させたい」と思わせるような指針をその後も継続的に示すべきであって、これを怠れば盤石と思われていた支持母体にそっぽを向かれてしまう「弱い立場」であることを、今回の事態はあらためて指し示している。
映画「ブッシュ(原題:W)」(2008年)で描かれた米国のキリスト教右派
このような事態に合わせるかのように、今回は「宗教右派」と「福音派」の歴史を見ていくことにしよう。例によって映画の紹介から始めたい。
2008年に公開された「ブッシュ(原題:W)」という映画は、宗教右派や福音派の政治化現象を説明する上で、この上ない教材である。監督は「プラトーン」「JFK」のオリバー・ストーン。社会派のシリアス路線がお得意な監督が、こんなアイロニカルなコメディーを見事に作り上げるのか、と感心したことを今でも覚えている。
主人公はジョージ・W・ブッシュ。言わずと知れた第43代米国大統領である。彼がいかにして大統領になり、その後どんな政治を行ったかを、失笑と皮肉を交えて描いている。
名門「ブッシュ家」の出身であることにコンプレックスを持っていた彼が、メジャーリーグ球団のオーナーとなり、アルコール中毒に陥り、その後「福音派」の集会で回心し、政治家を志すところまでが前半。そして大統領選挙に打って出るところが中盤のクライマックスとなる。
最も腹を抱えて笑ったのは、彼が大統領となり、そのお祝いに駆け付けた父親ジョージ・H・W・ブッシュが発した次の一言である。
「宗教関係者の機嫌を損ねるな。私はこれで失敗した」。ここでいう「宗教関係者」とは、当然キリスト教福音派牧師のことである。事実、父ブッシュは任期4年で民主党ビル・クリントンに政権を奪われている。
それには諸説あるが、オリバー・ストーンはその主要因として、彼が「宗教右派」と呼ばれる福音派集団およびその代表である牧師たちの陳述をないがしろにしたことで、支持を失ってしまったことをあげつらっているのである。
「宗教右派」とは、80年の大統領選挙でロナルド・レーガン候補を大統領にするために活躍した集団のことを意味している。直接的に彼らの票だけでレーガンが大統領になれたのではないが、76年のカーター政権誕生まではほとんど知られていない「福音派(Evangelicals)」という言葉が政治的な文脈で語られ始めたのは、レーガン政権以後のことである。
そもそものきっかけは、民主党から大統領になったジミー・カーターが「私は福音派だ」と公表したことにある。当時、ニューズウィークなどの表紙には「Who is Evangelicals?(福音派ってダレのこと?)」という言葉がおどった。
1920年代に「根本主義者」とさげすまれ、1960年代に「福音派」として細々と生きてきた彼らにとっては、青天の霹靂(へきれき)であったろう。まさか自分たちのことが雑誌やテレビで取り上げられるとは! 今まで浴びたことのないスポットライトが突然当たり出したのである。
そんな彼らの中には、カーター大統領が「福音派大統領」として、自分たちの聖書に基づく保守的な信仰を保護してくれると期待する者たちがいた。しかしカーター大統領の政策はあまり宗教的とは言い難かった。従来の民主党の政策を踏襲する形で、公立学校での祈祷の禁止や、聖書を朗読することに抑制が加えられることとなった。
いかにしてキリスト教「新宗教右翼(New Religious Right)」は政治力を持ち得たのか?
カーター政権に失望した人々の中に、ジェリー・ファルウェルという牧師がいた。彼は仲間と共に、米国の道徳が揺り動かされていると警告するメッセージを発信するようになっていた。そして、彼の周りには同じ忸怩(じくじ)たる思いを抱く人々が集まり始めたのである。
このような変動を敏感にキャッチした共和党員たちがいた。彼らは「ニューライト(新右派)」を名乗り、自分たちの信条に協力する者たちを仲間に加えることにちゅうちょすることはなかった。彼らにとっての最重要課題は、民主党から政権を奪還することだった。
そんなニューライトの1人がポール・ワイリックである。彼は「福音派」という政治に無知な宗教的集団が存在することを発見した。そして彼らのほとんどが選挙人登録をしていない(米国ではこの登録をしないと選挙権はもらえない)という状況を知ったのである。
当時、このような「福音派」が全国民の25パーセントは存在していた。彼らを束ねることができるなら、ワイリックの言葉を借りるなら「彼らの政治的スイッチを入れてやりさえすれば、彼らはたちどころに優秀な共和党員となる」のである。広大な票田が目の前に広がっているイメージを彼は抱いたという。
ここでワイリックは考えた。では、どうしたらこの「福音派」を束ねることができるのか? これを「政治屋」である自分が直接的に行うことは難しい。しかし、こういった政策に協力してくれる牧師たちに働きを委ねたらどうだろうか?
ワイリックは早速ファルウェルに面会を求めた。ファルウェルはこの申し出を受け、福音派教会を毎日曜に回り、「神の秩序を回復するため」にレーガンへの投票を人々に訴えたのである。
やがて彼らは「新宗教右翼(New Religious Right)」と呼ばれるようになり、80年代以降、共和党大統領候補のキャスティングボードを握るほどまでに影響力を持つようになっていった。やがてNewが取れて、「宗教右派」として80年代から90年代にかけては、この集団が目新しいものではなくなっていく。映画の中で、父ブッシュが「宗教関係者の機嫌を損ねるな」とアドバイスしたのは、こういう文脈からである。
ここで思い出してもらいたいのは、米国式の「政教分離」システムである。米国のそれは、「(特定)教会と国家との分離(Separation of Church and State)」であり、政治が特定の宗派(教派)に便宜を図らないことを意味するものであって、宗教が政治に関わることを決して否定するものではない。
だからファルウェルやワイリックのやり方を、私たち日本人の常識で断罪することはできないのである。彼らにとっては「常識の範囲内」の行状であり、事実米国はそうやって福音派を政治化させてきた歴史を持っている。
しかしここで断っておかなければならないことがある。全ての「福音派」が政治化したわけではない。このあたりの区別について、次回述べることとする。そうすることで、トランプ氏が現在置かれている状況をより分かりやすく解説することにつながるからである。
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