本書、森孝一著『宗教からよむ「アメリカ」』(1996年)は、アメリカ宗教史研究を志す者なら必ず手にする名著である。その証拠に、現在も版を重ねている。大学の図書館はもちろんのこと、少し大きな書店へ行けば、必ずお目にかかることができる。
また、第1章ではクリントン大統領を例に取り上げて、大統領選挙の見方、考え方についても書かれている。つまり「米大統領選挙」を読み解く上でも重要な1冊といえよう。このタイミングで紹介できるのはとてもタイムリーだと思う。
本書は森孝一氏(現神戸女学院学院長)が同志社大学神学部で教鞭を執っていたときに出版された。1996年当時、アメリカ研究といえば政治や外交が主流であり、アメリカ文学や特定の時代研究がそれに追随するような傾向があった。特に宗教研究は、特定教派の教義や教団の歴史を連ねたものがほとんどで、本書のように90年代当時の米国で起こっている出来事とその背後にある宗教性を連関させた内容は、専門的な論文を除けばほとんど存在していなかった。本書はその未開拓分野に挑んだ意欲作ともいえよう。
本書は、序章で「アメリカ文明への信仰」と題して、米国がモンロー主義から帝国主義へと転換する起点となったジョサイア・ストロングの著作『わが祖国』に焦点を当てている。
「キリスト教」というと、世界宗教として普遍的ではあるが、ぼんやりとしたイメージがつきまとう。本書は、米国国民の世界観を形成する「アメリカ的なるキリスト教」へフォーカスすることで、その影響力が米国人の意識下に根付いていく様が描かれている。政治と宗教が非常に近い位置にあり、お互いに影響し合って「アメリカ」を成り立たせてきたことが簡潔に述べられている。
第1章では、米国の「市民宗教(Civil Religion)」について述べられている。この「市民宗教」という概念を世に提示したのは、宗教社会学者のロバート・ベラーである。1967年、彼は「アメリカの市民宗教」という論文の中で、各国の政治に宗教的次元を与え続けてきた特定の「宗教」が存在することを提示した。「市民宗教」は、私たちが生活しているその背後に、私たちを無意識に規定し、方向づける「特定の考え方」が存在していることを示唆している。
例えば米国の場合、多くの人がキリスト教国家として見ているだろうが、大統領は「イエス・キリスト」という名称を用いず、換わって「神」と表現することに努めている。これは、プロテスタント、カトリック、あるいはユダヤ教など、おのおの異なった環境から移民としてやって来た人々をまとめ上げるための1つの方策である。細部を突き詰めず、ゆるやかな一体感を生み出そうとするこの表現こそ、米国「市民宗教」の特色ということになる。
しかし森氏は、「市民宗教」という表現があまり日本には似つかわしくないと考え、これを本書では「見えざる国教」と言い換えている。こうすることで、語られている題材は米国の諸事情であるが、常にその背後に「日本の場合はどうか」が問われることになる。
森の視点は、米国に向けられているのは確かだが、その先に「日本」が透けて見えているのが特徴である。日米の対照によって、新たな視点を獲得しようとする前衛的な姿勢が見受けられる。そのことは、あとがきの冒頭に次のように書かれていることからも明白である。
「『宗教からアメリカを考える』という私の研究は、つねに『日本の場合はどうなのか』という問いから出発し、そして、その問いに帰っていく」
96年当時といえば、森氏も言及しているが「オウム真理教事件」の衝撃が日本全土に宗教への嫌悪感を与えていた時期である。そこでこの著書を出版した意味は、今から考えても並々ならぬ決意があったと思われる。
このような強固な視点に立ち、2章から4章まで、米国のさまざまなトピックスが取り上げられている。2章では「見えざる国教」と対峙したセクト的諸宗教の歴史(モルモン教、アーミッシュ、人民寺院、ブランチ・デビディアン)が物語られ、第3章では米国保守派の動向(進化論、ファンダメンタリスト、新宗教右翼)をひもときながら、「見えざる国教」を構成する主要素となってきた歴史的経緯が描かれている。第4章では人種差別問題を取り上げ、これをいかにして乗り越えようとしているかについて、90年代の「今」を描き出している。
本書は、読み手に「そんな視点から米国をひもとくことができるのか」と思わせるトピックスが満載である。一見何の関係もなさそうな2つの項目を巧みにつなぎ合わせたり、「こう考えることが常識」と思われがちな出来事や用語を取り上げ、「実はこういった視点からみると、こんな意味がありますよ」と読み手の持っていた前提を覆したりしている。そのどんでん返しが見事であるため、読者は一気に読み進めることができる。
私見だが、そのクライマックスは第3章1節の「進化論論争」である。1925年にテネシー州デイトンで行われた進化論法をめぐる裁判(スコープス裁判)の真相で、私たち(特に日本人)は映画「シックス・センス」級の爽快な「やられた感」を抱くことになるだろう。
裁判によって根本主義者の愚かさは露呈し、その影響でファンダメンタリストは凋落(ちょうらく)していく。これによって、偏狭で狂信的な信仰を抱いた輩は成敗されたことになる。しかしその背後では、彼らを蹴落とそうと画策したリベラル陣営の「悪知恵」が存在していた、という件は、読み手の「隠された心理」を見事に言い当てている。
森氏は常々、「研究対象との距離」という用語を口にしてきた。自分が扱おうとする題材を、自分とは関係ないものとして距離を取りすぎることに警告を発している。その一方で、人一倍愛着がある題材の場合にも、逆に「適度な距離」を取ることを忘れてはいけないと指摘する。
これらは伝えたいポイントの表裏である。距離が遠すぎるとあまりに「冷たい」物言いになってしまう。逆に近すぎるなら、そこに潜む恣意性や主観性にとらわれてしまい、物事の真価を判断することができなくなってしまう。
「見えざる国教」という表現は、森氏自身が「研究対象との距離」を適度に取っていることの証左といえよう。「市民宗教」では、日本人には距離がありすぎる。かといってこれを「キリスト教」と言い切ってしまうと、多民族国家アメリカを的確に日本人に提示できない。だから、分かりやすくも少し注意して読み解かなければならないような「見えざる国教」という表現を創出させたのであろう。
そういった意味で本書は、宗教史のビギナーにとっては分かりやすい解説書として大変読みやすい内容になっている。一方、米国研究や宗教史研究の専門家にとっては、当たり前と思っていた事柄に新たな視点を与えてくれる刺激的な内容となっている。
ぜひ手に取って、一読してもらいたい良書である!
森孝一著『宗教からよむ「アメリカ」』(1996年、講談社)
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