庶民出身で女性の道を自ら切り開いたヒラリー・クリントンの歩みとメソジスト信仰①
前回までが共和党ドナルド・トランプ氏を中心としたコラムであったとしたら、今回からはヒラリー・クリントン氏(以下、ヒラリーと表記)に注目してみたい。数回にわたって彼女のプロフィルを中心にしながら、米国における女性の社会的立場の変遷も見ていきたい。そこには米国ならではの宗教性(ピューリタン的キリスト教)の功罪が見え隠れする。
ジョン・トラボルタ主演 米大統領選に挑むクリントン夫妻をモチーフにした「パーフェクト・カップル」
まず、1本の映画を紹介したい。1998年に公開された「パーフェクト・カップル」である。監督は「卒業」のマイク・ニコルズ、主演はジョン・トラボルタ。米国大統領選挙に出馬し、民主党の代表選を勝ち抜いていく若き理想に満ちた夫婦(およびその仲間)の奮闘と挫折をコミカルに描いた2時間23分の大作である。
これは当時から言われていたことだが、モチーフとなったのはビル・クリントンとヒラリー・クリントン夫妻である。ジョン・トラボルタが髪の毛をシルバーに染め、クリントン大統領のイントネーションをそのまま再現したような演技は、多くの人々から称賛された。
しかし公開当時の人々の関心は、「スミス都へ行く」のように理想に燃えた青年政治家の活躍ではなかった。次々と浮かび上がってくる汚職やセクハラまがいの訴訟を、彼らはいかに「うまくかわした」か、その舞台裏を垣間見たいということであった。
奇しくも1998年当時というと、ビル・クリントンには人生最大のトラブルが降りかかって(本人が引き起こして?)きた。ホワイトハウス実習生モニカ・ルインスキーとの不倫騒動である。そこまで映画では描かれていなかったが、「ああ、こいつならやりかねない」と思わせる仕上がりになっている。
映画だけでなく、実際にクリントン夫妻は「仲睦まじさ」を演出することでこの最大の危機を乗り切った。そして、これは大統領であるビルの窮地を救っただけでなく、それ以上に利を得たのは妻であるヒラリーであったと言われている。ここに彼女の「政治家」としての才覚と如才なさがある。
しかし同時に2016年の大統領選挙では、図らずもこの才覚と如才なさが裏目となり、「史上最も人気のない本命候補」と揶揄(やゆ)される事態に陥っているのである。
ヒラリー・クリントンの生い立ちと経歴とは?
ここで簡単にヒラリーのプロフィルを紹介しておこう。
ヒラリー・ロダムは1947年に中西部の中流家庭の長女として生まれた。父親のヒュー・ロダムは、長女を「息子」として育てたようで、彼女は男子生徒にも全く動じず、常にリーダーシップを発揮する存在として成長していった。
高校卒業後、マサチューセッツ州のウェルズリー大学に入学。当時はアイビーリーグ系の大学(全米で優秀な私立系大学群の総称)が女子学生の受け入れを嫌がっていたため、「女性のアイビーリーグ」の1つと言われたウェルズリーに進学したのであった。
彼女の存在は大学内でも輝きを増し、ついに開校以来の「卒業生によるスピーチ」を式典で行うことになった。今では卒業生がスピーチするのは当たり前であるが、これを女子大で行うことが「開校以来初」であるところに、当時の米国(1969年)の女性への扱いが透けて見えるであろう。
ヒラリーが行ったスピーチは、全米規模で一大センセーションを巻き起こし、「ライフ」誌に取り上げられるほどであった。内容は、「一見不可能に見えることを可能にする技術」として政治を実践すること。まさに今のヒラリーを予見させるものだと言えるだろう。
当時、公民権運動、ベトナム戦争、ウーマンリブ運動など、大変動の真っただ中であったため、彼女が政治に関して興味を持つことは必然的な流れであった。特に父親が熱心な共和党支持者であったことから、最初は彼女もそれに倣っていたが、この卒業演説の前後から、彼女は民主党支持へと転向した。
その後、ヒラリーはイェール大学ロースクールへ進学する。政治を志す者の多くがこのコースを選択するが、彼女もその1人であった。しかし決して裕福な育ちの中、彼女がこのコースへ進学したのではない。母校ウェルズリー大学から奨学金を得たり、他の諸団体から助成金を手にしたり、その不足分をアルバイトで補うなかでの進学であった。
そこで彼女は、赤みを帯びた長髪・あごひげの1年下の男子学生と出会う。ビル・クリントンである。
彼はロースクール内でもひときわ目立ったヒラリーに声を掛けられず、食堂や図書館で彼女の後を付け回していたらしい。ただ、「目立った」と言っても化粧をしてファッションセンス抜群であったという意味ではない。
その反対で、彼女はいつも分厚いビン底眼鏡をして、髪の毛は無造作に2つに束ね、服装は体形が露わにならないぶかぶかの洋服を着ていたのである。つまり彼女は女性としての魅力で目立っていたわけではなかった。
話を戻そう。自分を背後から見つめる男子の姿を、彼女が知らないはずはなかった。1971年春、ついに業を煮やしたヒラリーは、男子学生(ビル)にこう言い放ったという。
「あなた、5分間も私を見つめてたわね。少なくとも自己紹介すべきじゃない?」。こうしてヒラリーは、将来の大統領と交際をスタートさせたという。
庶民の出身から「女性」の道を自ら切り開いたヒラリー
ここまでのヒラリーの半生を見ると、幾つかのことが分かる。それは女性であることをことさら否定するような形で、自らの能力をアピールしてきたこと。さらに1960年代から70年代の米国一般市民として、特別な権威や力を持ち得ない庶民として生きざるを得なかったということである。
努力して自ら道を切り開くことで、ヒラリーは政治家としてのし上がってきたということである。その苦労は人一倍であった。特に「女性」という立場は、当時の米国ではどうしても男性にかしずくことを求められた。それを否定する生き方は、彼女の服装やコミュ二ケーションの取り方など、全てに醸し出されていたと言えよう。
ヒラリーを支えるのは“未知の領域に踏み出す”メソジスト的信仰と思考も?
もう1つ重要なファクターがある。それは彼女の家庭がメソジスト信者であったということである。米国が独立し、そこにさまざまなプロテスタント教派が入り込んできた。その時、最も教勢を伸ばしたのが、バプテスト派とメソジスト派であった。
特にメソジスト派は1820年代から始まった第2次大覚醒運動(リバイバル)で、牧師資格を持たずとも巡回して伝道することができる許可証を信徒たちに公布したことで、一気に自教派を拡大した経緯がある。
その当時、牧師職は一部の特権階級であり、知性主義の象徴であったため、信徒に説教させる、しかも西部の開拓民たちについて回るというシステムは、いまだどの教派も実践したことがなかったのである。(詳細は、森本あんり『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』第5章を参照のこと)
そこには、未知の領域に一歩踏み出す「信仰」があった。いや、それしかなかったと言ってもいいだろう。もちろんその後、メソジストもエスタブリッシュとしてメーンライン化するので、そういった斬新性は失われていくが、その本質に、現状を改革していくアグレッシブさがあったとしてもおかしくはない。
ヒラリー・クリントン(当時はまだロダム)の人生の中核に、メソジスト的思考があったとしたら、彼女のその後の歩みは納得できるものだと言えよう。
なお、手軽にヒラリーおよびクリントン夫妻のことを知る手段として、以下の2冊を挙げておく。新書でコンパクトにまとめられている。
越智道雄『ヒラリー・クリントン 運命の大統領』朝日新書、2015年。西川賢『ビル・クリントン 停滞するアメリカをいかに建て直したか』中公新書、2016年。
次回は、大統領夫人としてのヒラリーを見ていこう。
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