1973年、ロースクールを卒業したビル・クリントンは、27歳でアーカンソー大学の助教授に就任した。やがて彼は政界へ興味を示していく。一方、ヒラリーは、マサチューセッツ州で児童保護基金に職を得ていた。やがて連邦下院司法委員会がニクソン大統領の弾劾を調査する委員会を立ち上げたとき、彼女はそのスタッフに抜擢され、それに伴って首都ワシントンへ居を移している。このあたりからヒラリーは生粋の民主党員として頭角を現していくこととなる。
そして2人は1975年10月11日に結婚する。「クリントン夫妻」の誕生である。その1年後、ビルはアーカンソー州の州司法長官に立候補し、当選を果たす。その2年後に州知事に名乗りを上げ、対立候補を63対32の得票差で下し、32歳という全米で最も若い知事に就任する。
その飛ぶ鳥を落とす勢いのまま、すんなりと上院議員、大統領候補に抜擢されたらよかったのだが、実はそうではない。1980年の知事選挙で、なんと現職にもかかわらず落選の憂き目に遭ってしまう。そこには多くの要因があるが、その1つにヒラリーの名前問題があった。
当時ヒラリーは結婚しているにもかかわらず、依然旧姓のヒラリー・ロダムと名乗っていた。南部アーカンソー州は、男性優位の保守的な地域であったため、女性は男性を立てて家庭の主婦となることが美徳とされていた。その時代に、夫の知事職を内助の功で助けるのでなく、自らが法律家として活躍するヒラリーの姿は、南部気風には合っていなかったのである。
これらのエピソードからも、1960年代から70年代の米国社会をうかがい知ることができよう。ヒラリーが2008年の大統領選挙でバラク・オバマ現大統領と民主党代表指名候補枠を争ったとき、「ガラスの天井を打ち砕こう!」と訴えた。これは米国において、男性よりも女性が低く見られ、差別が存在することを示している。
彼女の戦いは、この世に生を受けたときから始まっていたと言える。女性に生まれつきながらも、父親から「男性として」の教育を受け、そのプレッシャーをはねのけてリーダーシップを発揮する青春時代を送ってきた。
女性として史上初めて大学の卒業式でスピーチをする権利を獲得したことは、前回述べた通りである。結婚した後も、彼女は自らの戦いを継続してきたと言うことができよう。
聖書の「創世記」がもとになっている米国社会の男女差別
そもそも、どうして自由と平等、人権を内外にアピールしてきた米国において、このような男性優位社会が露骨に存続してきたのであろうか? 一方で「レディー・ファースト」という文化を育んできたのも、米国である。
日本やヨーロッパ的な封建制度がある国々では、男女の差異が生み出されることをある程度は納得できるが、米国にはそのような伝統はない。しかし、封建制に代わって特に南部で実践されてきたのは、聖書の天地創造に基づく男女の差異化である。
創世記2章で「女性が男性のあばら骨から取られて創造された」となっている。これが男性優位に物事を考えても良い(考えるべき)とする根拠となってきたことは、周知の事実であろう。
話を戻そう。現職知事であるにもかかわらず落選の憂き目に遭ったクリントン夫妻は、その2年後の知事選挙の時にある声明を発表する。それは、今後ヒラリーがクリントン姓を名乗る、というものであった。そして驚くべきことに、彼女は知事選挙で夫を助けながら、自分の弁護士としての仕事をこなし続けたのである。
結果、ビルは知事に返り咲くことができた。そして92年までの10年間、アーカンソー州知事としての職をしっかりと守り通したのであった。ここにヒラリーの卓越した能力を見る識者は多い。彼女が本気で「ガラスの天井」を壊そうと考えるなら、枝葉末節にこだわるのではなく、人々を味方につける戦略を優先したこともうなずけることである。
ファースト・レディーとしての医療保険制度改革推進と挫折
そしてついにビル・クリントンは、1992年の大統領選挙を戦い抜き、その地位を手にした。ヒラリーは「ファースト・レディー」となったのである。全世界の女性がうらやむ地位をヒラリーもまた手にしたのだが、彼女はそれに留まる者ではなかった。
ヒラリーは、クリントン政権発足後わずか1カ月で医療保険制度改革委員会の委員長に就任したのである。ご存じの方もおられるとは思うが、米国では医療保険が強制ではない。言い換えると、自らの意思で医療保険会社を選択しなければ、国は全く面倒を見てくれないというのが現実である。
しかしこれでは一部の金持ちだけが治療を受けられ、本当に必要な低所得者層はこの恩恵にあずかれないことになる。これを是正するために、全ての米国民が医療保険を利用できるようにするシステムを生み出すことは、民主党のみならず、大統領に就任した者たちが一度は挑み、そしてまだ誰も成し得ていない案件であった。
この米国独特な医療保険制度の現状については、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「シッコ」をご覧になることをお勧めする。面白おかしく描写しながら、実はぞっとする現実を突き付けている映画である。
この大案件に、ビルはヒラリーを抜擢して解決に当たらせた。歴代のファースト・レディーが夫と手をつなぎ、国民に手を振っていた(もちろんそれだけではないが…)のに比べて、ヒラリーは大統領の命を受けたとはいえ、独自に調査したり活動したりする権限をその当初から獲得していたのである。
この人事からして、やはり異例中の異例であった。実は大統領選挙運動期間中から、ヒラリーがこのような活動に従事する兆候はあったと言われている。ビルは選挙演説の中で何度も「Buy One, Get One Free(1人買ってくれたら、もっと優秀なもう1人はおまけでついてきますよ)」と語っていた。
これは当初、ビルのユーモアだと思われていた。しかしそうではなかったことが大統領就任後の人事ではっきりしたのである。「自分を大統領にしてくれたら、自分よりももっと優秀な妻、ヒラリーがついてきますよ」と言ってのけるクリントン大統領。さすがは戦後ベビーブーマー世代だといえよう。
鳴り物入りで就任したヒラリーであるが、この医療保険制度の提案は、結果的に上院議会を通過せず、廃案となってしまう。彼女と600人を越えるスタッフが作成した法案は1300ページを越える大作であった。これを見た議員たちは、ヒラリーの有能さをあらためて実感したという。
しかし、これと法案を通過させるかは別問題であった。ここにも「見えない天井」が彼女の前に立ちはだかった。もちろんその法案に反対したのはおのおのの議員たちの政治的立場であったことが主な要因であったろう。しかしやはり大統領夫人ヒラリーが先頭に立っていたということを快く思わない「保守的な人々」が存在したこともまた事実であろう。
これを機に、ヒラリーはさらに「政治家」としての手腕を高めていき、手練手管の方策を巧みに操る熟練政治家への道を歩み始めることとなる。
ちなみにこの国民皆保険制度は、同じ民主党のオバマ大統領が医療保険制度改革(オバマケア)としてその法案をついに可決へと導いている。ヒラリーの挫折を教訓として慎重に事に当たったオバマ大統領の成果ともいえるが、その骨子はヒラリーたちの遺産である。
「彼が私と結婚していたら、彼が大統領になっていたわよ」がジョークでなくなる日?
女性として、大統領夫人として、「見えない天井」にチャレンジし続けるヒラリーの姿は、こんなジョークを生み出すまでになった。
クリントン大統領夫妻が、夫人の故郷の町・シカゴ郊外パーク・リッジを大統領専用リムジンでドライブ中、ガソリンスタンドに入った。
すると従業員がこう声を掛けてきた。
「ヘイ、ヒラリー、覚えてるかい? 高校時代オレとデートしたじゃないか?」
しばしのおしゃべりの後でスタンドを出ると、大統領は自己満足に溢れて「あいつとデートしたって? あいつと結婚していたらどうなっていたかな?」と聞いた。
大統領夫人は肩をすくめてこう答えた。
「彼がこの私と結婚していたら、逆にあなたがあそこでガソリンを入れていたでしょうね。そして彼が大統領になってたわよ」
1992年当時、これはジョークだった。しかし2016年、これが単なるジョークではないことを、ヒラリーは自らが大統領になることで証明しようとしている。ガラスの天井が崩れるときは来るのだろうか?
次回は、上院議員時代のヒラリーを取り上げ、彼女がキリスト教を巧みに用いてのし上がっていく様をたどってみたい。
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