前々回は、「生まれざる者」と「生まれた者」と題して、主に子なる神が「生まれた者」であるという点にスポットを当てて書かせていただきました(コロサイ1:15参照)。今日は「生まれざる者」である父に焦点を当てて書かせていただこうと思います。
キリスト教界ではこのような言葉を耳にすることが多いように思われます。「旧約は父なる神の時代、新約は子なる神の時代、そして今は聖霊の時代である」。これは大変分かりやすく、スッキリとした説明ですが、私たちはこれを文字通り受け取ってよいのでしょうか。
基本的に三位なる神様は共に働かれますので、例えば子なる神が働かれるときに、父と聖霊が休憩をとっているということではありません。子なる神が働かれるのは、むしろ父が今に至るまで働いておられるからだとあります(ヨハネ5:17)。
そして聖霊様は御子の内で働かれたのですから、三位なる神は常に言葉と思いを「一」にし、「一」なる名において共に働かれるということができます。つまり、いつの時代においても、三位なる神は休むことなく共に働かれ、人類を導き祈りに答え、ご自身の計画通り活動していらっしゃるのです。
では、先ほどの、時代区分は全くの無意味かといえば、そういうわけでもありません。イエス様はこのように言われました。
「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハネの福音書16:7)
子なる神が去らないと、助け主(聖霊なる神)が来ないとはっきりと語っておられます。そしてその言葉通り、キリストは去って行かれ、ペンテコステ(五旬節)の日に弟子たちは聖霊に満たされ、その時以来、教会は聖霊に満たされたクリスチャンによって世界各地に広がっていったのです。そういう意味では、キリストがこの地上におられた時を「子なる神の時代」、ペンテコステ(五旬節)の時以降を「聖霊の時代」とするのは、1つの妥当な考え方だということができます。
繰り返しになりますが、「聖霊の時代」になったからといって、子なる神は休憩をされているかというと、そうではありません。キリストは地を去り、神の右の座に着かれた後も、私たちのためにとりなしの祈りをささげてくださっていると聖書にはあります(ローマ8:34)。
つまり、「聖霊の時代」というような表現は、三位なる神のうち、どのお方が直接的に私たち人類に近く関わってくださるかを表現しているものなのです。
しかし、このように新約の時代を「子の時代」、ペンテコステ(五旬節)以降現代までを「聖霊の時代」としてしまいますと、私たちはなんとなく「では、父なる神は旧約の時代かな」というふうにパズルのように当てはめてしまいます。そして実際に旧約聖書を読んでいると、厳しい戒めの言葉や、裁きの言葉などが目に付きますので、父権的だと捉えやすいかもしれません。
では、旧約聖書に書かれている神「יְהֹוָה」、日本語では「エホバ」や「ヤハウェ」と訳されますが、この「ヤハウェ」が、すなわち「父なる神」であるのかを考察してみたいと思います。まずはアブラハムが主(ヤハウェ)に出会った場面を確認してみましょう。
「主(יְהֹוָה)はマムレの樫(かし)の木のそばで、アブラハムに現れた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした」(創世記18:1、2)
主(ヤハウェ)がアブラハムに現れたということですが、同時に3人の人が彼に向かって立っていたという記述があります。そしてアブラハムはこの3人と食事まで一緒にするのですが、この3人とは誰だったのでしょうか?
「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。・・・」(創世記19:1)
続きを読むと、そのうち2人がソドムの町の方へ下って行くのですが、この2人は御使いであったと書かれています。そしてアブラハムは引き続き、主(ヤハウェ)と語り続けるのです。つまり主(ヤハウェ)は、2人の御使いを引き連れて3人でアブラハムに会いに来て、食事まで一緒にされたということになります。
また、モーセもアブラハムと同様に、主(יְהֹוָה)と対面されたと書かれています。
「主(יְהֹוָה)は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。・・・」(出エジプト記33:11)
しかし、問題は新約のこれらの聖句です。こうあります。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」(ヨハネ1:18)
「・・・神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン」(Ⅰテモテ6:15、16)
新約聖書において、神は「子なる神」以外、「いまだかつて見た者はいない」「だれひとり見ることのできない方です」とあります。
しかし今確認したように、アブラハムは主(ヤハウェ)を見て、共に食事をし、モーセは顔と顔とを合わせて主と出会っています。では、旧約聖書の主(ヤハウェ)を、すなわち「父なる神」であるとするのは無理があるのではないでしょうか。
では、モーセやアブラハムに顕現(けんげん)した主とは、何者なのかということについて、幾つかの説があります。
1つは、受肉以前のキリストの顕現というものです。例えば、アブラハムを祝福するメルキゼデクなどが受肉以前のキリストの顕現であると主張する方がいます。キリストは受肉以前も当然存在していたのですから、そのキリストが2千年前に地上に降誕される以前に、顕現されたのだという説です。
もう1つは、主(יְהֹוָה)とあるのは、「主の使い」すなわち「御使い(天使)」であるというものです。実際に、他の箇所では、主の使いがアブラハムに呼び掛けたとありますし(創世記22:11)、新約においては聖霊に満たされたステパノがこのように語っています。
「四十年たったとき、御使いが、モーセに、シナイ山の荒野で柴の燃える炎の中に現れました」(使徒7:30)
人間にとっては、御使いは十分に神々しい存在であり、使徒ヨハネでさえ2度までも御使いを拝そうとしました(黙示録19:10、22:8)。旧約の時代に、「主の使い」を「主」であると表現してしまった可能性は十分にあります。ただし、全ての箇所や場面がそうであったと断定することもできません。
受肉以前のキリストの顕現という説は、論理性や可能性としてはあり得るでしょうが、当然これも仮説の域を出ません。
いずれにせよ、私たちはパズルのように、もしくはイメージで「旧約を父の時代」、主(יְהֹוָה)すなわち「父なる神」、などと断定してしまうと、見ることのできない偉大な父に対して誤った認識を持ってしまう可能性があるので注意が必要です。私たちはあくまで聖書が語っていることのみを知ることが許されているのです。
「・・・神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。・・・」(Ⅰテモテ6:15、16)
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