「子も知らないことを知っておられる父」「悲しまれる聖霊」「父から出でる聖霊」「キリストの神性」「聖霊の神性」
三位一体の神様についてこのようなテーマで、もう少し各論を書かせていただこうかと思っていましたが、考えてみますと、これらのテーマに関しては、私が書きましても、既存の理解を踏襲することになると思いますので、省略させていただき、今回で十数回にわたって連載をさせていただいた「三位一体の神様」にいったんの終止符を打たせていただきたいと思います。
それでは最後に、今までの内容を簡単に振り返り、まとめた上で、自分なりの結論を書かせていただきたいと思います。
既存の三位一体論
2015年10月14日付の本紙において「なぜ三位一体は理解しづらいのか?」という記事が掲載されていました。それによると、今までの既存の三位一体論は、以下のような例えによって語られることが多く、そのどれもが誤りであるか不十分であるということでした。
① 氷、液体の水、水蒸気という水の三態のようだ。
② 殻、卵白、卵黄という卵の3つの部分のようだ。
③ 3つの部分があって1つの本体という、三つ葉のクローバーのようだ。
④ 父、息子、夫という3つの役割を持つ男性のようだ。
また、「三位一体論(三・一論)」がなぜ難解なのかについては、以下の同記事の文に集約されています。
「問題は突き詰めて考えれば『3つが1つ』の問題に終結する」
そうです。人間の通常の理性では、「三位なる方」が、同時に「一」であるということがどうしても受け入れられないのです。
私は既存の三位一体を例える方法に2つの疑問を感じていました。1つは、聖書の啓示に頼る以外に私たちは神を知り得ないはずなのに、上述したような例えには、それを裏付ける御言葉が1つも引用されないということ、また偉大な人格神である創造主を例えるのに、生命のない物体などが用いられている点です(④の例を除いて)。そこで私は、ひたすら聖書に立ち返ること、神に似せて造られた私たち人間、また「人の心情」をヒントに三位一体なる神の実像に肉薄すべく連載を始めさせていただきました。
本連載の中核テーマ
位格(ペルソナ)の独立した三位なる神が、いかに「一」なのかについて、主に以下の3つのテーマで論じてきました。
1つ目は、「三位なる神は互いに対する尊重と謙遜と愛の故に、『おもい』を『一』とされる」というもの。
2つ目は「子は父から聞いた言葉そのままを語られ、聖霊はその同じ言葉を私たちに思い起こさせてくださる方である。故に三位なる神は言葉において『一』である」というもの。
3つ目は「三位なる神は別々の三つの名(複数)を有しているのではなく、マタイ28章19節に記述されている『父子聖霊の御名(オノマ)』は『単数形』であり、神様は御名において『一』である」というものでした。
「神の位格(希: υπόστασις, 羅: persona)は三つ、神の実体(本質、本體[ほんたい]、希: ουσία, 羅: substantia)は一つ」(引用元 wikipedia「三位一体」)
もともとこのような定義があるのですが、この「一」である「神の実体(本質、本體)」が何であるかということについて、聖書をもとに「おもい・言葉・御名」と表現させていただきました。つまり、三位なる神は位格(ペルソナ)において「三」であり、本質(おもい・言葉・御名)において「一」であるということです。
愛の故に
さらに言うと、三位なる神は互いに対する「愛」の故に、本質(おもい・言葉・御名)を「一」とされました。
「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」(ピリピ2:2)
「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」(コロサイ3:14)
この御言葉は聖徒に与えられた御言葉ですが、父子聖霊もまた、愛の故に結ばれた「一」なるお方なのです。(詳しくは、連載を読み直してみてください。)
三位一体なる神と教会の関係
そして私たち聖徒も、互いを愛し合うことにより「一」となり(すなわち教会)、愛で結ばれた三位一体なる神との間に、同質の愛の交わりが持たれることを神様は望んでくださっています。
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(Ⅰヨハネ1:3)
そしてついには(これは非常に驚くべきことですが)、愛の故に一致した聖徒(花嫁なる教会)と、三位一体なる神が、キリスト(花婿)を通して「一心同体」となることを神様は計画し、願ってくださっているのです。
「『それゆえ、人はその父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。』この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです」(エペソ5:31、32)
三位なる神が愛の故に「一」であられるように、その神は私たちが愛によって結ばれ「一」(教会)となることを望まれ、さらに「一」となった私たち(教会)と、神ご自身が愛の故に、一心同体となることを望んでくださっているのです。これをパウロは偉大な奥義だと言っているのです。
博愛を超えて
世界には今も昔も人の引き起こす多くの悲劇があります。富の格差、戦争、貧困、孤独、精神不安、自殺、いじめ、性的搾取、などなどです。
それに対しキリスト教は、博愛を唱えてきました。つまり「他者を広く平等に愛せよ」というものです。また多くの人々は、他者のイタミに共感する「思いやり」を持っています。しかしそれにもかかわらず、上述したような悲劇は一向になくなりません。
キリストは、「隣人を自分自身のように愛せよ」と言われました。もはや他者を他者として愛する(博愛)のではなく、三位なる神が互いに対する愛の故に「一」となられたように、私たちも他者を、神様の愛の中で自分と「一」となる存在なのだという気付きの中で愛することが、神様の願われることではないでしょうか。その時初めて、私たちは心から、隣人を自分自身のように愛することができるようになるのです。
今回の連載は一応、ここまでとさせていただきます。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。また本テーマに関して、追加的に書き足すべきことがありましたら、書かせていただくかもしれません。また、もしでき得るならば、連載の最初から最後まで読み返していただけると、理解が深まるかと思います。
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