昔キングギドラという架空の怪獣がゴジラシリーズに登場していました。体は一つで頭が三つある怪獣です。また古来の日本にもヤマタノオロチという八つの頭を持った怪獣の伝承がありますし、聖書にも七つの頭を持つ獣(黙示録17:3)や、四つの顔を持つ生き物(エゼキエル1:6)などが登場します。神様が「三」の独立した位階(ペルソナ)であり、なおかつ一体な方であるというと、上述のようなイメージを持たれる方もいるかもしれません。
しかし、この「一体」というのは「体(からだ)が一つである」という意味ではありません。「子なる神」であるキリストは体を有するものとしてこの地に来られた方ですが(ヘブル2:14)、父や聖霊が体を有しているという聖書箇所はないからです。
この「一体」というのは三位なる神の、本質が「一」(もしくは、本質において「一」)であるという意味です。そして神の本質は何かといいますと、「おもい」「ことば」「御名」などと表現することができます。ですから、三位なる神が「おもい」において「ことば」において「御名」において「一」であるということを、今まで聖書を基に皆様と確認してきました。
これらのことは、上述の怪獣のように絵のようにイメージできる事柄ではありませんが、心の中に三位なる神を思い、祈りつつ、じっくりと聖書を読み、学び、黙想していけば、各人のふに落ちることであると思います。
しかし、教理として「三位一体」を擁護しようとすると、Ⅰヨハネ5:7、8の例でみたように、聖書を加減したり、神聖四文字「יְהֹוָה」を「エホバ(ヤハウェ)」から「主」へと改訳したりするなどの「策」を講じることになってしまうので注意が必要ですというのが、先週までの内容でした。
今日からは三位一体なる神の関係に注目していきたいと思います。先週も引用させていただいた久保有政先生がご自身のサイトの中でされている解説が非常に明快ですので、まずはそちらを確認してみましょう。
御父・御子・御霊の間には、"生まれざる者・生まれた者・出た者"という区別がある。区別までなくしてしまうと、もはやそれは三位一体論ではない。御父は、誰によっても造られず、誰によって生まれたのでもなく、自存者であり、「生まれざる者」であられる。また御子は、御父から「生まれた者」、御霊は、御父から「出て」御子を通して信者に注がれた霊である。
これらは久保先生の持論ではなく、聖書に根拠のあるキリスト教神学の本流的な理解と言ってよいでしょう。しかし、御子が「生まれた者」であるということは簡明なようで、非常に難解な内容を含んでいます。ですからこの部分が強調され、教えられることはまれだと思います。まずは聖書を確認しておきましょう。
「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです」(コロサイ1:15、16)
御子が「生まれた者」であるというときに、御子の誕生を二つに分けて考える必要があります。一つには2千年前に乙女マリヤによってこの地に生まれたということです。しかし、これのみを考えると、キリスト降誕以前から万物は存在しているわけですから、上述の「造られたすべてのものより先に生まれた方です」という御言葉と整合性が取れなくなってしまいます。
この御言葉は、御子が、万物が創造される前に、すなわち創世記以前に「生まれた方」であることを語っているのです。2千年前にこの地に生まれたというのは、それ以前から存在していた御子が、この地に降臨(受肉)されたということになります。御子イエス自身が「・・・アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」(ヨハネ8:58)と宣言されている通りです。
ところが、創世記以前に(万物より先に)御子が生まれたとしても、その生まれた時点より先には「子なる神」は存在しなかったのかという疑問が残ってしまいます。そして、もし御子が存在していない時期かあったのならば、果たして御子は「神」であると言えるのかという疑問も生じるでしょう。
実際にエホバの証人の方々は、「神によって造られたアダムが『神の子』と呼ばれている(ルカ3:38)のを見るときに、同様に『神の子』と呼ばれている御子イエスも、ある時点(生まれた時点)から存在している被造物なのであって、『神』ではない」と主張します。これらの主張や疑問に、私たちはどう答えるべきなのでしょうか。少し複合的に考察してみる必要があります。
造られた者と生まれた者の違い
アダムが「神の子」と聖書に明記されていることは確かですが、アダムは同時に「土地のちりで人を形造り」(創世記2:7)とも書かれており、創造主(神)ではなく、被造物であることは確かです。
それに対して御子に関しては、「すべてのものより先に生まれた方です」と書いてありますが、「造られた」とは書いてありません。「生まれた」のと「造られた」のには歴然とした違いがありますから、「生まれた方」という言葉をもって御子を被造物だと断定することはできません。むしろ他の聖書箇所は、御子が礼拝される対象である神であると教えています(ヨハネ1:1、9:38、20:28など)。
生まれる以前とは
「生まれた者」であるからには、生まれる以前は存在していなかったというのは、この地の常識に基づく考えです。そもそも、以前とか以後とかいうのは「時間」に基づく概念なのですが、「時間」とは、「空間(世界)」を創造されたときに始まったもので、神の世界には時間は存在しないのです。ですから、御子が生まれる以前は存在しなかったはずだというのは、この世の常識を基にした推論にすぎないのです。
「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです」(Ⅱペテロ3:8)
一つの可能性
しかしそれでも、御子の生まれる前について思いを巡らすのであれば、ヒントになる箇所があります。
「また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。というのは、メルキデゼクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです」(ヘブル7:9、10)
アブラハムがメルキデゼクに十分の一の献金を納めたときに、アブラハムの玄孫(やしゃご)であるレビはまだ生まれていませんでした。しかしそのレビは、アブラハムの中にいたと書かれています。
これは十分の一献金について語っている箇所ではありますが、御子が生まれる以前には存在していなかったのではなく、父の中に存在していたのだという可能性があります。
聖書の書かれた目的
「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20:31)
聖書の書かれた目的は、私たちが信仰を持って、命を得るためです。ですから、そもそも永遠以前の父と子の関係に関して詳しくは書いてありません。私たちは、細い線を頼りに、永遠以前の父と子に関して思いをはせることができるだけです。
もしかしたら、父と子は永遠の昔には単にお一人のお方であり、世界を創造し、人類を神の子にしようと決意されたときに、父と子になられたのかもしれません。そうではなく、子は生まれる以前から父の内(ふところ)に存在していたのかもしれません。もしくは「生まれた」というのは、私たちが想像しているのとは全然違う意味であるかもしれません。
とにかく、今回の論旨はこうです。「生まれた方」だという表現から、「御子は生まれる前は存在しなかったはずだ、ゆえに彼は神ではなく被造物である」とするのは論理の飛躍になってしまうということ。またこれらの誤解を恐れるあまり、「御子が造られた全てのものより先に生まれた方」だという御言葉を無意識に避けることも、三位なる神を理解する妨げになってしまうということです。
私たちは、父が「生まれざる者」であることと、御子が「生まれた者」であることを、完全には理解できないにしても、まずは聖書の言葉通りそのまま心に留めるべきなのです。
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