氷、液体の水、水蒸気という水の三態のようだ。
殻、卵白、卵黄という卵の3つの部分のようだ。
3つの部分があって1つの本体という、三つ葉のクローバーのようだ。
父、息子、夫という3つの役割を持つ男性のようだ。
そして私が好きな例えは、スリー・イン・ワン・シャンプー(訳注:シャンプー・コンディショナー・ボディソープの一体型)のようだというものだ。この例えだと、どう説明すればいいのかがよく分からないが。
これらの表現になじみはあるだろうか。学校の宗教教育の時間がフラッシュバックする。大変な量の例えを用いて3つの人格を持つ唯一の神のコンセプトを説明しようと、教師が必死に試みていたことを覚えている。しかしすでに心ここにあらずの状態だった授業は、さらに混乱を深めただけで終わってしまった。公平になるならば、それは猛烈に複雑で、ほとんどの人はその考えについていけなかった。
三位一体について何冊かの著書がある神学者のスティーブ・ホームズは、彼ですらそれを完全に理解できているわけではないと述べた。ふー。ため息が出る。彼の神学的定義は、「すべてのものを創造した唯一の永遠の神が、分離不可能に結合している父、子、聖霊として3度存在する」だ。シンプルではないか。
いや、前述の例えほどではない。3つの人格で1つの存在である神という、神性の在りようは難しい。ただの足し算ではない。他の誰が、どのものが、同時に3つのものかつ1つのものであり得るだろうか。
何年にもわたり、キリスト教徒たちは三位一体を説明するために、例えやイメージを生み出してきた。そして、より分かりやすいものもある。これらのものの一部を注意深く見てみよう。
三つ葉のクローバー
これは最も有名な例えかもしれず、国のそこらじゅうの教会で、年に一度は持ち上がるものだろう。この物語は、聖パトリキウスがこの考えをのみ込むのが難しい未信者のアイルランド人に対し、例えとしてシャムロックを用いたことから始まる。シャムロックには3枚の葉があるが、茎は1本だ。完全な例ではないか。そう、私たちがこの3枚の葉を、それぞれ父・子・聖霊を意味していると受け取らなければの話だ。この例えは、神性はただ3つに分かれるのではなく、彼らが共にいようとも、それぞれ1枚が全体として、完全に完璧な神であると認められなければ意味がない。
このアプローチはパーシャリズムとしても知られ、この考え方を取り入れたキリスト教徒は、三位一体が神の一部分に過ぎず、すべてが集まったときにのみ全き神となると考えるようになる。間違いだ。
水についての例え
混乱していないだろうか。では、氷、液体の水、水蒸気という水(H2O)の三態はどうか。これもまた水も漏らさぬ完璧な例えか。いや、これもまた短絡的なのだ。このアプローチは様態論(サベリウス主義)として知られ、神がご自身を3つの様態として現すのであって、3つの性質が異なる独立した人格ではないという考え方だ。
この考え方の支持者は、神はまず父としてご自身を現され、次にイエス、そして聖霊として現されたと考える。これらの「様態」は連続しており、一時的で、決して併存しない。つまり、この考え方は三位一体の3つの人格の違いを否定している。これも間違いだ。
父・息子・夫ジレンマ
そして、昔からの例えとして、同時に父であり、夫であり、息子である一人の男性というのがある。彼は一人の男性だが、3つの異なる機能を持つ。驚くまでもなく、この例えもまた三位一体の全てを描き切れていない。父なる神、子なる神、聖霊なる神は単純に神の3つの機能なわけではなく、(ここから声をそろえて言おう)3つの異なる人格だ。
多くの男性には妻、子、父親が実際にいるだろうが、彼はただ、交流している相手に応じて役割を変えているのだ。三位一体の複雑さとは比較にならない。
◇
ならば、これらの例えのポイントは何か。私たちは三位一体を説明することを諦め、私たちの言語が神の何たるかを決して説明しきれないことをただ受け入れるべきなのだろうか。
ホームズによれば、決してそうではない。彼は、どんな例えも決して完全ではない(「そういった例えでもいくらかの良いものを提示しているので、私はあなたの『悪い例え』という言葉には少し抵抗する」)と言う一方、完全に諦めてしまうこともまた過ちとなり得ると述べている。
「シャムロックの例えが本当かどうか、・・・それが伝道の日和見的な局面なら、まだいいだろう。しかしこれが三位一体に対する私たちの理解という局面においては、何か大きな間違いとなり得る」とホームズは述べている。
「一般的に、私たちが使うすべてのイメージや例えは真理のあるレベルまでを伝えてはいるが、ある面ミスリーディングを招いているところに問題があると考えられる。役に立つ真理が現されているところと、現に間違っているところとの間で混乱すると、問題となる」
なので、次回の説教で使うつもりの卵を、今しまわなくてもよい。
しかし、話はまだ続く。ホームズは、三位一体に関する混乱の多くは、現に見当違いだろうと考えている。彼によると、ほとんどの人の問題は突き詰めて考えれば「3つが1つ」の問題に終結するが、「神についての大きな疑問ではない」という。
「三位一体は重要だが、『1つの中の3つ』の疑問は必ずしも必要ではない。・・・三位一体を説明するのに現状最善の方法は、福音書の物語に立ち返ることだ。聖霊を送ることについて父なる神に話しているイエスを示せばよい」とホームズは述べた。
「福音書の物語の登場する3人の登場人物はみな、真に疑いようもなく、取り除くこともできない神だ。そう複雑なことではない。しかし冷静に理解しようとするなら、そうなるかもしれない」
これにはうなずける。神は三位一体の複雑性の上をいく存在だ。神性の複雑さを正面から捉え、あるいは幾らかでも理解しようとしたとしても、私たちは決してそこへ達することはできない。神の無限の性質と、私たちの知性の有限な性質は、神が満ち満ちた存在であることを完璧に理解することが決してできないことを意味する(私はここで読者に、「海をティーカップに入れるようなものだ」という例えを用いたい。しかしこれもおそらく、神学的には適切ではないだろう)。神の思いは私たちの思いより高く(イザヤ55:9)、神は私たちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることがおできになる(エフェソ3:20)。
アウグスティヌスが言ったように、「あなたが理解できることは、おそらく神ではない」。