この夏は多忙なことが重なり、連載が少し中断していますが、「神様の御名」に関連してメッセージをする機会が与えられたので、その原稿を本紙用に校正し直して寄稿させていただきます。論説というよりは、メッセージ調ですが、三位一体の神様を理解する一助になればと思います。
さて、イエス様は父の名を大切にされ、御名の栄光のために祈られ、働かれました。ある時弟子たちが、祈り方を教えてくださいと、質問をしてきました。そこで教えられたのが、有名な主の祈りです。
この祈りはとても短いものですが、この短さは内容の少なさを意味しません。むしろ非常に濃厚で大切なことが凝縮されています。その中でもイエス様が、最初に祈るべきこととして教えられたのが、これです。
「イエスは、彼らに言われた。『祈るときには、こう言いなさい。「父よ。御名があがめられますように」』」(ルカ11:2)
以前、イエス様がご自身の「おもい」よりも、父の「御心」がなることを願われたと語りましたが、それとともにイエス様が強く願われたのが、父なる神様の御名があがめられ、その御名の栄光が現されることでした。(ヨハネの福音書12:28も参照)
「御名」というのは、神様の本質だと以前書きましたが、神様ご自身とイコールだと言ってもいいほど、重要なものです。実は人も同様に、「名前」を大切にします。
例えば、何かの祭りやイベントの時などは、自分の名前が大きく協賛者名簿に載るために、高額の寄付をしたりします。新聞などに良い事で、自分や家族の名前が載れば非常に誇らしく、不名誉な事で載れば、自信の体が傷つけられる以上に、心が痛みます。
またある時は、不祥事を起こして、または誤解により、名誉が汚されそうになると、時に自殺をしてでも自身の名誉を守ろうとします。つまり、時に人は自分の「命」以上に自身の「名前」を大切にするのです。「名前」は、ほぼその人と等価値なのです。
神様の御名についての理解を深めるために、旧約聖書のソロモン王が神様の神殿を献堂したときの祈りを確認してみたいと思います。
「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。けれども、あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。・・・そして、この宮、すなわち、あなたが『わたしの名をそこに置く』と仰せられたこの所に、夜も昼も御目を開いていてくださって、あなたのしもべがこの所に向かってささげる祈りを聞いてください」(Ⅰ列王記8:27~29)
神様は、偏在される方です。偏在とは全ての場所に同時にいらっしゃるということです。これは、神様が全ての場所に瞬間移動するという意味ではなく、全ての空間よりも神様が大きく偉大な方であるということです。
「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ。――天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ――」(エレミヤ書23:24)
ソロモンは、当時としては金銀の財を尽くして、非常に壮麗な神殿を造ったのですが、そこに偉大な偏在される神様を住まわせることができないことを百も承知でした。ただ彼は、そこに神様の御名を置いてほしいと願ったのです。そして神様は、この祈りに答えてくださいました。
「主は彼に仰せられた。「あなたがわたしの前で願った祈りと願いをわたしは聞いた。わたしは、あなたがわたしの名をとこしえまでもここに置くために建てたこの宮を聖別した。わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」(Ⅰ列王記9:3)
なんと神様は、ソロモンの祈りに答え、彼の建てた宮に神様の名をおいてくださり、そこに目と心を向けてくださると約束してくださったのです。では、このことは現代に生きる私たちとどのような関係があるでしょうか。新約聖書に戻りたいと思います。
「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです」(ヨハネ17:11)
イエス様はここで、「あなた(父)がわたしに下さっているあなたの御名」と言われました。つまり父なる神は、ご自身の栄光ある名を子なる神に与えられたのです。そしてイエス様はその神様の名前を、私たちに知らせてくださり、与えてくださったのです。
「そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」(ヨハネ17:26)
旧約の時代、神様はご自身の名前をソロモンが造った宮に置かれました。そして新約の時代には、御名を子なる神に与えられました。そしてまた今の時代には、神様は私たちを宮として聖別してくださり、栄光ある神様の名を私たちのうちに置いてくださいました。そして、「わたしが彼らの中にいるためです」「わたしの目とわたしの心は、いつもそこにある」と言ってくださるのです。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(Ⅰコリント6:19)
三位一体なる神様は、神ご自身とも等しい大切なご自身の名前を私たちに与えてくださり、私たちのうちに住むと言っておられるのです。このことを知った者は、その神様の名前を賛美し、栄光を帰す歩みをするようになるのです。ヘブル書の記者はこのように勧めています。
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか」(ヘブル人への手紙13:15)
また詩篇の記者は、このような告白をしています。
「主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、また、あなたのみおしえを守っています」(詩篇119:55)
この御名は、万物によってあがめられる偉大な神様の名前です。
「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(ピリピ2:10、11)
どうして、万物が子なる神の名前を賛美するときに、父なる神がほめたたえられるのでしょうか? それは先ほど確認したように、御子の名前が父によって与えられた父の名であるからであり、三位なる神が御名において「一」であるからです。イエス様の御名があがめられることは、父なる神の御名があがめられることと同じなのです。
この名は悪霊をも追い出す権威ある御名です(ルカ10:17)。また私たちが、神様の名において祈るとき、神様は病をも癒やしてくださいます(使徒4:10)。そして何よりも、この名は救いをもたらす、恵み深い神の名前です。この御名以外に救いはありません。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」(使徒4:12、ローマ10:13も参照)
神様が私たちのことを一方的に愛してくださり、息子娘のように思ってくださっているのですから、私たちも自身の栄誉ではなく、神の御名に栄光を帰すことだけを心掛けていこうではありませんか。詩篇の記者は、はっきりとこの姿勢を告白しています。
「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」(詩篇115:1)
そのような歩みをするときに、神様は喜んでご自身の栄光を私たちに分け与えてくださり、地においては病を癒やし、悪霊を追い出し、祈りに答え、祝福を与えてくださり、かの日には、救いを与えてくださり、神様の新しい名前を私たちに書き記してくださり、永遠に私たちと共に住んでくださるのです。
「勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす」(黙示録3:12)
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