父なる神、子なる神、聖霊なる神、つまり三位なる神が、いかに「一」なのかについて、前回まで「おもい」と「言葉」というテーマで論じてきました。
一つ目は、「三位なる神は互いに対する尊重と謙遜と愛のゆえに、『おもい』を『一』とされる」というものであり、二つ目は「子は父から聞いた言葉そのままを語られ、聖霊はその同じ言葉を私たちに思い起こさせてくださる方である。ゆえに三位なる神は言葉において『一』である」というものでした。
今回は神様の本質に関わるもう一つの重要な点について語りたいと思います。それは三位なる神様は御名において「一」であるというものです。まずは今日のテーマの核心となる聖書箇所から見ていきましょう。
「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:19、20)
復活されたキリストが弟子たちに残された最後の命令であり、「至上命令」などとも呼ばれている箇所です。この中に本日のテーマと関係の深い一文があるのですが、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け(なさい)」というものです。
今私の手元に、日本同盟基督教団教育部編集の『聖書が教えている基本的なこと』という聖書入門の良書があります。この本の中に、上記の聖書箇所を解説しているところがあるのですが、一部を引用してみます。
父、子、聖霊の三つの位格です。それなのに、ここで「御名」と訳されているギリシャ語本文のことば(オノマ)は単数形なのです。(23ページ)
神は三位なるお方なので、私たちは漠然と父なる神の名があり、子の名があり、聖霊の名がありと、別々の三つ(複数)の名があるように考えてしまうかもしれませんが、原語においては単数形、つまりは三位なる神の名は「一」だというのです。それはどういうことなのでしょうか。
そもそも私たちは「神様の名前は何ですか?」と聞かれたらどう答えるでしょう。知っているようで、難しい質問です。「アドナイ」「エロヒーム」「エルシャダイ」「ヤハウェ」「エホバ」「イエス」「聖霊」などという名前が思い浮かぶかもしれません。意外にも多くあるので、少し頭の整理が必要です。
「アドナイ」というのは、普通名詞の「主」という意味ですし、「エル」や「エロヒーム(複数形)」というのも同じく普通名詞の「神」という意味です。その普通名詞「エル」に修飾的表現である「シャダイ(全能)」を加えたものがエルシャダイ(全能の神)となります。
では、「エホバ」や「ヤハウェ」の名とはなんでしょうか? これらはヘブライ語の「יְהֹוָה」という神聖四文字(テトラグラマトン)の日本語表記です。
ヘブライ語は子音でのみ書かれ、当時の母音が分からないため、幾つもの仕方で表記されるのです。学者たちの間では「ヤハウェ」や「ヤーウェ」が当時の発音に近いとされています。聖書を確認してみましょう。
「神はモーセに仰せられた。『わたしは、「わたしはある」という者である。』また仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。「わたしはある(הָיָה אֲשֶׁר הָיָה)という方が、私をあなたがたのところに遣わされた」と。』神はさらにモーセに仰せられた。『イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主(「יְהֹוָה」ヤハウェ)が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である』」(出エジプト3:14、15)
このヤハウェという名は、原語(ヘブル語)を見ると「わたしはある」という言葉を語源としており、同義なのです(MySword H3068項参照)。ですから14節では「わたしはある(הָיָה אֲשֶׁר הָיָה)という方が、私をあなたがたのところに遣わされた」とあり、15節では「主(『יְהֹוָה』ヤハウェ)が、私をあなたがたのところに遣わされた」となっているのです。
「わたしはある」というのは、神様(GOD)が他の何者かによって造られた被造物ではなく、自ら存在される方「自存者」であるということであり、「ヤハウェ(יְהֹוָה)」というのは自存者である神様が自らの名としてモーセに啓示された神様の固有の御名ということになります。
本連載のテーマに戻りますと、この旧約時代に啓示された「ヤハウェ(יְהֹוָה)」という神様の名は「父なる神」の御名であるのか?というのを考察しなければなりません。
もしそうだとした場合、「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け(なさい)」というキリストの至上命令を受けた弟子たちは、ヤハウェ(父)の名とイエス(子)の名と聖霊の名によって、バプテスマを授けなければならなかったはずです。
それでは、弟子たちが使徒行伝で実際にどのように人々にバプテスマを授けたかを確認してみましょう。
「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい』」(使徒の働き2:38)
「彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていた」(使徒の働き8:16)
「そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた」(使徒の働き10:48)
「これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた」(使徒の働き19:5)
何と彼らは徹頭徹尾、一つ(単数)の御名つまりはイエスの名でバプテスマを授けており、父の名にも、聖霊の名にも全く触れていません。復活されたキリストの最後の言葉「至上命令」を弟子たちは軽んじたのでしょうか? なぜ彼らは、神自ら宣言された神ご自身の固有の御名である「ヤハウェ(יְהֹוָה)」の名をスルーしたのでしょうか?
それを理解するためには、イエスという名の意味について考えなければなりません。この名は啓示によってキリストに与えられた名ですが(ルカの福音書1:31)、「イエス」という名はモーセの後継者であった「ヨシュア」という名をギリシャ語に音訳したものでした。そしてこの名はヤハウェの名と無関係な名ではないのです。二つの名をヘブル語で比べてみましょう。
「יְהֹוָה」:ヤハウェ
「יְהוֹשׁוּעַ」:ヨシュア/イエス
ヘブル語は右から読むのですが、最初の3文字が共通していることに気付かれると思います。それではヨシュアという名の左半分の意味はというと「運ぶ・救い出す」という意味です。つまり「ヨシュア/イエス」の名とは、「ヤハウェは救い」という意味なのです。英語ではJehovah-savedと解説されています(e-Sward H3091項参照)。
弟子たちはヤハウェの名をスルーしたのではなく、イエスの名にヤハウェの名が内包されていることを知っていたので、ただイエスの名でバプテスマを授けたのです。ヤハウェの名の意味を踏まえて、イエスの名の意味を平易な言葉で表現すると、「自存される神が人類を救われる」となります。そしてこのことはまさに三位なる神の御心であり、共通の働きなのです。
ですから、このように有機的なつながりのある神様の御名をロジカルに整理しようとしては、矛盾が生じます。もし、父の名をヤハウェ、子の名をイエスとすると(「イエス」の名が人として地に来られた子なる神の御名であることは間違いありませんが)、聖霊は「名無しの権兵衛」なのかという疑問が生じます。聖霊の名は「聖霊」だと言う方もいるかもしれませんが、「聖霊」とは「父・子」同様に位格の名ですので固有の御名ではありません。
とにかく、キリストが「父、子、聖霊の御名(単数形)によってバプテスマを授け(なさい)」と弟子たちに命じられ、弟子たちは徹頭徹尾、ただ「イエス」の名(単数)でバプテスマを授けたことは間違いありません。
先ほど引用した、『聖書が教えている基本的なこと』という良書が、神の「御名」が単数形であることが、神が「唯一のお方」であること示していると結論付けていますが、このことは、私たちが三位一体を理解する上で大切なポイントです。
父、子、聖霊の三つの位格です。それなのに、ここで「御名」と訳されているギリシャ語本文のことば(オノマ)は単数形なのです。神は父と子と聖霊の三つの位格なのですが、唯一のお方なのだということを示しているわけです。(23ページ)
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