前回、三位一体が難解なのは「三(複数)つが一(単数)つ」という点であるが、聖書には「三位一体の神様」以外にも「複数の人格(位格・ペルソナ)でありつつ、一体なる存在」の例がはっきりと示されていますので考えてみてくださいと言いました。一人の方が、私が今日書こうとしていることとほぼ同じことをコメント欄に回答してくださいましたが、他の皆様も考えていただけたでしょうか。
二つの基本的なこと
今日は、本論に入る前に踏まえておきたいことがあります。それは、三位一体なる神様を理解しようと努めるに当たって大切な考え方が二つあるということです。いやこれは三位一体論だけに関わることではなく、聖書全般の他のテーマを理解する上でも同様です。それが以下の二つです。
・聖書によって聖書を解く
・神に似せて造られた人間になぞらえて理解する
【聖書によって聖書を解く】
これは、聖書全般や神学を理解するに当たって肝に銘じなければならない点です。ヨハネの福音書20:31にはこうあります。「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」。神様は私たちが命を得るために必要かつ十分な核心的内容が聖書に書かれるようにされたのです。ですから、ある聖書個所を理解するためには他の資料や知識を探求するよりも、聖書全巻を何度も繰り返し読んで、聖書全巻の知識をバックボーンにして読むということに重点を置くべきなのです。その基礎ができた上でならば、他の資料を学ぶことも有益となり得ますが、決して逆ではありません。
【神に似せて造られた人間になぞらえて理解する】
もう一つの大切なポイントは、神様に似た(近い)存在を通して神様を理解するということです。驚くべきことに聖書は、私たち人間が神に似せて造られたと語っています。であるならば、「人間」をアナロジー(類比・類型)やタイプ(予型・ひな型)とすれば良いのです。別の言葉で言うと、人間になぞらえて三位一体なる神様を理解していく方が、水や卵や三つ葉のクローバーなどを例えにするよりも深い理解に近づけるということです。
二位一体
また、前置きが長くなりましたが、上記の二つの基本的な原則を踏まえて、「複数の人格(位格)からなる一体なる存在」というのは、それほど奇異なことではないということを確認していきたいと思います。例えば人間の夫婦の関係を考えてみましょう。
「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。・・・(エペソ5:31、32)
夫婦の関係はまさに「複数の人格(位格)からなる一体なる存在」の一例となります。夫婦は当然異なる人格を持っていますが、聖書によると「ふたりは一体」なのです。もう少し、詳しく見ていきましょう。
この箇所は、新約聖書の著者であるパウロが、さらにずっと昔に書かれた創世記の言葉を引用しているものです。しかし、いきなり「それゆえ・・・ふたりは一体となる」と言われても「???」ですね。この「それゆえ」を理解するために、創世記においてどのように男女が造られたかを確認しなければなりません。
神である主は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女(イシャ)と名づけよう。これは男(イシュ)から取られたのだから」(創世記2:22、23)
なんと女性は人の一部から造られたと聖書は教えています。つまり、これもまた驚くべきことですが、男女はもともと一人の人だったわけです。そしてその一人の人の一部から女性が造られたのです。それゆえ、その二人が出会って結ばれ、心から互いを愛し合うときに(コロサイ3:14)一体となるというのです。なぜ男女がこれほど強く惹(ひ)かれ合うのかが分かる気がするではありませんか。キリストもこの摂理について、このように明確に表現しています。
それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マタイ19:6)
この「ひとり」の人は、依然としてそれぞれが独立した人格を有していますが、神の視点で見るときには、「ひとり」の人となるのです。「複数の人格(位格)からなる一体なる存在」というのは、到底理解できない奇想天外なことではなく、ごく身近なことであるということがお分かりいただけると思います。
今日の社会においては、売買春や離婚や人の妻と浮気をすることなどが日常茶飯事となっています。しかし、聖書はそのいずれをも禁じています。それは道徳的に禁じているというよりは、上記のような神様が男女を造った摂理があるので、一体となった人の関係を壊すことは真の幸福にはつながらないと私たちを諭しているのです。
とはいえ、すでに過去にこのような体験を経てしまっている人を、聖書はいたずらに非難しようというのではありません。キリストが高価なご自身の血(命)の犠牲を払ってくださっているので、全ての過ちは赦(ゆる)されます。ただこれからはこの神の摂理を知り、お互いの関係を尊重すべきだということです。
キリストの体
夫婦の例え以外にも、「複数の人格(位格)からなる一体なる存在」というのを聖書の中に見ることができます。キリストを頭(かしら)とし、全てのキリスト者は皆で一体であると聖書は教えています。聖書箇所を引用しておきます。
しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。・・・あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(Ⅰコリント12:20~27)
愛は結びの帯として
このように「複数の人格(位格・ペルソナ)でありつつ、一体なる存在」というのは、聖書の中核的なテーマとして描かれています。いずれの例えも、偉大なる三位一体の神様の全てを説明しきれているわけではありませんが、少なくともその一面の理解を助けてくれているはずです。そして、どのテーマにも共通しているのが、結びの帯としての「愛」です。夫婦の関係にしても、クリスチャン同士の関係にしても、三位一体なる神様にしても、「愛」がなければ絶対に「一体」となることはできません。
ところで、夫婦やクリスチャン同士の関係には欠けがあると言わざるを得ません。愛がないとは言いませんが、人の愛は完璧なものではないので、関係が壊れたり、ヒビが入ったりすることもあるのです。しかし、三位一体なる神様は「愛」そのものなるお方なので(Ⅰヨハネ4:8)、三つの人格(位格)でありつつ、完全に一体なる方となり得るのです。私たちの関係も、やがてこの神様の交わりに招き入れられるときに(Ⅰヨハネ1:3)本来の姿に回復されることになるでしょう(Ⅰコリント15:40~44)。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。(コロサイ3:14)
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