前回は、「複数の人格(位格・ペルソナ)でありつつ、一体なる存在」というのが奇想天外なことではなく、私たちにごく身近な「夫婦の関係」や「共同体としての教会(キリスト者の集まり)」などを通して、ある程度は理解することができると書かせていただきました。
今回からは、より直接的に三位一体の神様に関しての聖書箇所を追いながら、どのような意味において「1」なのか、いかに「3」なのかを見ていきたいと思います。まずは「3」の意味について確認しておきましょう。
「3」に関しては、今までも語ってきましたが、三つの位格として神様が存在していることを意味しています。位格というのは人でいうところの人格のことですが、神様は人ではないので、人格とは表現せずに位格(ペルソナ)といいます。
神が三つの位格として存在していることに関しては、この連載の最初に引用した「なぜ三位一体は理解しづらいのか?」という記事の中で紹介されている神学者スティーブ・ホームズの言葉を参考にしてみましょう。彼はこう言っています。
「現状最善の方法は、福音書の物語に立ち返ることだ。聖霊を送ることについて父なる神に話しているイエスを示せばよい」
これはまさに的を射ている指摘でして、福音書の中には「父・子・聖霊」の関係性を垣間見ることのできる記述があります。しかし、いっぺんに「父・子・聖霊」について語ると複雑になりますので、まずは「父と子」について考えてみましょう。
福音書には、父なる神と子なる神との対話の箇所が幾つかあります(ヨハネ11:41ほか)。もしも「父と子」が同一の位格(ペルソナ)であるとしたら、これらの箇所は神様の一人芝居となってしまいます。
有名な「ゲッセマネの祈り」すらも、白けた、ナルシスト的な独白となってしまいます。ゲッセマネの祈りとは、キリスト(子なる神)が十字架刑を前日にひかえ、汗が血のしずくのように地におちるほど切に祈られた祈りです。引用しておきましょう。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)
確かに父の「みこころ」と子の「願い」が、(つまりは父と子の位格が)独立したものであることが書かれています。ところで、この「父と子」の描写は、対話と捉えることもできますが、「祈り」という観点で見るときに、父と子の位格の性質がより明確になります。
クリスチャンになる方々は、牧師先生から祈りについて、「父なる神様」と呼び掛けながら祈りを始め、終わるときには「イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン」と結ぶように指導されます。
そうすると鋭い方は、私たちは「父なる神」に祈るのだろうか、それとも「子なる神」に祈るのだろうかという疑問を持ちます。そして各自、「父なる神」にのみ祈る、「父と子」両方に祈るなどと考えを巡らせていき、最終的には「聖霊様だけを無視するのは申し訳ないから、聖霊様にも祈ろう」などとなるかもしれません。しかし、聖書が明確に語っているのは、こういうことです。
「・・・あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。・・・その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」(ヨハネ16:23~26)
確かに聖書は、私たちに子なる神の名(イエスの名)において祈るよう教えているのですが、ここの箇所では、祈りを受けられるのはあくまで「父なる神」だとされています。この辺りのことに関しては、後日「神の名」というテーマで再度触れたいと思います。とにかく、子なる神は「あなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と言われました。
話は少しそれますが、カトリック教会や正教会は、聖母マリヤに対して祈りをささげているという批判をプロテスタント側から受けることがあります。その時に、彼らは「私たちはキリストの母である聖母マリヤに、「転達(執り成しの祈り)」を依頼しているのであって、聖母を祈りの対象としているわけではない」と答えるようです。
しかし、イエスははっきりと、「あなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」と言っているのですから、「人⇒聖母⇒子なる神⇒父なる神」という祈りのルートはどうなのでしょうか。
聖母に私たちの事情をキリストに執り成していただくようお願いするというのは、心情的には十分に理解できますが、私が聖書を読む限りにおいては、よりダイレクトに「人⇒(イエスの名によって)父なる神」に祈ればよいのだと思います。
しかし、これだけを断言してしまうと、以下の聖書箇所と矛盾するように感じてしまうかもしれません。
「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう」(ヨハネ14:13、14)
ここでは子なる神が「わたしに求めるなら、わたしがそれをしましょう」と語っており、ご自身が祈りを受け、応答される主体であるとしているのです。聖書(三位一体)が難しくもあり、興味深くもあるのはこの辺りにあるのではないでしょうか。このことに関しては、「一体の神」について書かせていただくときに、再度触れさせていただきます。
話が二転三転してしまって、分かりづらいと感じられるかもしれませんが、最低限押さえてほしい確実なポイントは、子なる神(イエス・キリスト)は父なる神に対して祈りをささげられる「祈られる神」であるという点です。先ほどのゲッセマネの祈りは、ヘブル書においてさらに明確に解説されています。
「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7)
天地を造られた神である方(子なる神)が、「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ」られたというのは、驚くべきことではありますが、この一事をもって神の位格がそれぞれ独立していることと、「父と子」の位格の性質や関係性をより深く知ることができるのです。
「祈られる神」は、子なる神だけではありません。「聖霊(御霊)なる神」もまた、言いようもない深いうめきによって私たちのために、執り成しの祈りをささげてくださいます。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」(ローマ8:26)
ただ「父なる神」だけが「祈られない神」であり、むしろ私たちの祈りをお受けになるお方です。このように完全に独立した位階(ペルソナ)である「三位なる神」が、いかに「一体なる神」であるかを来週以降書かせていただきます。
今日のポイントだけを見ると「父なる神」のみが優れた存在であり、「子なる神」「聖霊なる神」は劣っている、もしくは下位の位階だと思われるかもしれませんが、そういうわけでは決してありません。また私たちが祈るときには、子も聖霊も無視して祈るのでもありません。
私たちは子なる神の名を通して、聖霊様の助けを受けて、父なる神に切なる祈りをささげるのです。日々祈りをささげるのです。
私は聖書を通して、神が祈られるということを知ったとき、非常に大きな衝撃を覚えました。何の欠けも不足もなく、天地万物すらも造られた子なる神が(ヨハネ1:3)、私たちの罪を贖(あがな)うために「大きな叫び声と涙とをもって」祈りと願いをささげてくださり、聖なる聖なる御霊である神ご自身が、「言いようもない深いうめきによって」私たちのために執り成してくださるとは、いかに驚くべきことでしょうか。私たちは三位なる神に、私たちが思っている以上に深く、そして強く愛されているのです。
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