神様に甘えることは可か
英会話に興味を持ち、NOVAに通い始めて十年余になる。その間、多くの外国人(主としてUSA、CA、AUST、NZ、UKほかであるが)に出会い、特定の場における交流とはいえ、知り合えたことは素晴らしいことであった。今まで全く知らない世界が広がり、充実した旅をしているようなものだと思う。
交わった人も数百人に及ぶと思う。いろんな人種、国籍の人がいたが、共通して言えることは、彼ら、彼女らは、甘えた精神を持っていないということである。『「甘え」の構造』(土居健郎著)という本が出版されるくらい、日本人には甘える性格があるようだが、彼らにはほとんどないように見受けられる。
しかし私は、人間は根本的には皆、似たり寄ったりであると思う。人種、国籍、性別などによらず、いかに育てられたかによって、大人になっても人に甘える性質が残るのだと思う。
子どもの時に溺愛されたり、したい放題にさせてもらったりして育った人たちは、大人になっても、自分の周囲の人はそういう類の人であるというふうに見る。甘えて当然、という態度が出るのは当然である。
甘えるというと聞こえは良いが、大人になって出てくる甘えは、犯罪、殺人等々に結び付きやすい厄介な習性である。こういう罪と結託しやすい性質は、幼少の頃に摘み取られることが望ましいことは、言うまでもない。
私たちは、神に甘えることはできるのであろうか。もちろん、前述したように、罪と結託しやすい甘えはできないけれども、聖書にはある条件のもとで、できると書いてある。それは、私たちの願いが、キリストの願いと同じ性質のものであるとき、という条件である。
「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです」(ヨハネ14:13)
生まれつきの人間の持つわがままな甘えではなく、生まれつきのわがまま故の罪ならば、ありのままをさらけ出すとき、神様はこの種の甘えを許してくださる。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)
甘えることと、それがかなえられることはまた別である。
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