前回は「祈られる神」と「祈りを受けられる神」という視点で、三位なる神の位格(ペルソナ)がそれぞれ独立したものであることを論じました。新約聖書を素直に読めば、これ以外にも「父・子・聖霊」として神が三位なるお方であるというのは十分に読み取ることができます。
それよりも難しいのは、その三位なるお方がいかに「一」であるのか。言い換えると複数の位格(ペルソナ)でありつつ、いかに「唯一神」であり得るのかという点です。前々回、「夫婦の摂理」という聖書的アナロジー(類比・類型)を通して、「複数の人格(位格・ペルソナ)でありつつ、一体なる存在」というのが奇想天外なことではないことを書かせていただきました。今回からは、より直接的に神ご自身に関する聖書の記述を追っていきたいと思います。
まずはなぜ「唯一神」であるという主張をしなければならないのかを押さえておきましょう。そもそも三つの位格(ペルソナ)であるなら、神は「唯一神」ではなく、多神教的に「三神」であるとしたらよいではないかと思われるかもしれないからです。それはこの有名な聖書箇所に依拠します。
「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである」(申命記6:4)
これは古代イスラエル民族が朝夕に唱えていた「シェマ イスラエル(聞きなさい イスラエル)」という信仰告白です。キリスト教は、旧約聖書を正典として「唯一神信仰」を継承していますので、新約聖書において神が三位なるお方であることが啓示されているとしても、「三神」とすることはないのです。
ではここから、いかに神が「一」であるのかを書かせていただきます。それには幾つかのテーマを丁寧に追う必要があるのですが、今日はその最初のテーマである「おもい」についてです。本日の結論を先に言うと、「三位なる神は、『おもい』において『一』である」となります。
当然「父・子・聖霊」は独立した位格(ペルソナ)、つまりは知性・感情・意思を有していますので、「おもい」も独立しています(ここでの平仮名の「おもい」とは「想い・思い・考え・意志・意思・願い・御心」などを意味します。「こころ」と言い換えてもよいかもしれません)。では、なぜその三つの独立した「おもい」が「一」であると言えるのでしょうか? 聖書を確認してみましょう。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22:42)
先週も引用した聖書箇所ですが、ここで「子なる神」は十字架での死を前日に控えて、それを避けられることを祈られました。なぜ、彼がこのように祈られたかについてはここでは踏み込みませんが、確かに彼は独立したご自身の願いを持っているのです。
しかし注目すべきことに、彼はその自分の願い(おもい)よりも、父の「みこころ」(おもい)が成ることをより強く願われたのです。それにより、父と子の「おもい」は一つとなったのです。同時にこのことにより、「父なる神」と本質的に同等である「子なる神」が、謙遜であられたということと、父なる神に全幅の信頼と愛を抱いていたことを読み取ることができます(ピリピ2:6~)。
こう言いますと、「子なる神」だけが謙遜であり、父なる神は子の「おもい」を無視して頑固にもご自身の「おもい」だけを押し通されるのかと感じられる方もいるかもしれませんが、無論そうではありません。子なる神が十字架の死という最も困難な道を通ることは、最も大きな栄光をお受けになるお方にとってふさわしいことであり、父なる神はそのことを知っていたのです。
「『あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。』・・・イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです」(ヘブル2:7~10)
つまり、子なる神を思うゆえに父は子の「おもい」を退けられ、子もまた、その父の「おもい」が成ることを願われたのです。私たちは十字架のキリストの死が、ただ人類の贖罪のためだけに成されたと教えられます。もちろん、それは間違いではないのですが、そのことは同時に「子なる神(万物の存在の目的であり、また原因でもあるお方)」にとってもふさわしいことであったのだという複眼的な視点を持たなければなりません(ピリピ2:8、9も参照)。そしてこのことは、神の人類に対する恩寵を薄めることには微塵(みじん)もなりません。
聖霊(御霊)に関してはどうでしょうか? この箇所を確認してみましょう。
「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです」(ローマ8:27)
聖霊(御霊)もまた独立した位格であるゆえに、独立した「おもい」を有しています。しかし、聖霊は父の「おもい」を超越して働かれることはありません。聖霊は常に父の「みこころ」通りに、神の「みこころ」に従って働かれるのです。そして父もまた、そんな聖霊の思いが何かをよく知っておられるのです。父と聖霊の間にも、父子間と同質の、互いを尊重する心・謙遜・愛などが流れています。
ある方々は聖霊を、人格(位格)の伴わないエネルギーのような存在だと主張しますが、とんでもないことです。むしろ聖霊は私たち以上に感受性の豊かなお方であり、このお方だけが唯一その心において父なる神の深い「おもい」を痛切に知っておられ、私たちにそれを啓示してくださるお方なのです。
「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。・・・神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません」(Ⅰコリント2:10~11)
偉大なる父と子と聖霊なる神は、互いに対する尊重と愛と謙遜のゆえに、「おもい(心)」を一つとされるのです。そして三位なる神はその聖なる神の交わりの中に私たちを招いておられ(Ⅰヨハネ1:3)、神の似姿に似せて造られた私たちに対しても、神と同じ「おもい」を持つことを望んでおられます(Ⅰペテロ4:2)。
いかに私たちは目に見えない神と交わりを持ち、父と子と聖霊が一つ「おもい」を持たれるように、神と同じ「おもい」を持つことができるでしょうか? それは神の「みこころ」の啓示されている聖書に聞くことと、日ごとに祈ることと、神の深みにまで及ばれる聖霊に満たされることによるのであり、地上において目に見える兄弟たちと心を一つにすることによるのです。
「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」(Ⅰペテロ3:8)
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