三位一体なる神様を論じるには、常に論点の整理が必要ですので、今回も少しだけ今までの内容を確認するところから始めさせていただきます。
- 神様は、「父・子・聖霊」として、「三」つの位格(ペルソナ)なる方である。
- それは「子なる神」や「聖霊なる神」が「父なる神」に祈る場面において明確である。
- 同時に神様は唯一神であり、「三神」ではない。
- 夫婦は「一(体)」でありつつ、複数の人格である聖書的アナロジーといえる。
- 夫婦の人格が独立しているように、神の位格(知情意)は独立している。
ではその三位なる神がいかに「一」なのかについて、先週は「おもい」というテーマで論じました。すなわち、「三位なる神は互いに対する尊重と謙遜と愛のゆえに、『おもい』を『一』とされる」ということでした。
今日は、「言葉」というテーマで、「一」について論じたいと思います。ちなみに、なぜ私が「一体」についてと言わずに、「一」についてと言うのかについては、佐藤優氏の著書の中で紹介されている同志社大学の伝統に賛同する部分があるからです。
「日本の神学者で、東京神学大学で勉強した人が『三位一体』という術語を用いるのに対し、同志社大学神学部の出身者は『三一』という術語を用いる傾向があります。この言葉はギリシア語のτριας ラテン語のTrinitasの訳です。三位一体という『位』『体』に相当する言葉が、ギリシア語、ラテン語の双方にありません。ただ三と一をつけているだけです。三位一体は、特定の神学的解釈を前提とする訳語です。それでは、三一の持つダイナミズムを表現できないと同志社の神学者たちは考えました」(佐藤優著『神学の思考』平凡社、57、58頁)
私の現時点の理解では、結論に関しては「三位一体」という表現が一つの卓越したものだと思うのですが、それを説明する段階においては「三一」の方が、言葉のしがらみから解放されて、より本質に迫れる場合があるのだと思います。先週のテーマでいうと、三位なる神の「おもい」は「一体」であるとするより、「一」であるとした方がフィットするのです。
それでは本日のテーマですが、先週の内容が腑に落ちた方は、すぐに理解されると思います。先週と同様に結論から言いますと、「三位なる神は言葉において『一』である」となります。聖書箇所を確認していきましょう。
キリストの言葉
「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです」(ヨハネ12:49、50)
子なる神は独立した位格・ペルソナ(すなわち知性、感情、意志)を持っていますので、自ら真実を語られ、その口には何の偽りもありません(Ⅰペテロ2:22)。しかし彼は、ご自身が話している言葉は父の言葉であると明言しています。つまり、父なる神と子なる神の言葉は別々にあるのではなく、父と子の言葉は「一」なのです。
ではどうなのでしょうか? 子なる神は、ご自身で何も考えずに、単なる録音機のように父なる神の言葉を反復しているのでしょうか。無論そうではないでしょう。先週書いたように、子なる神は父に全幅の信頼を寄せていますので、父の言葉を傾聴し心から同意されたはずです。
そして子が語られるときには、父の言葉はご自身の心からの言葉となってその口を通して出てくるのです。その時には一字一句同じ言葉だという意味ではありません。本質的に「一」なる言葉を語られたということです。
聖霊の言葉
では聖霊なる神はどのように私たちに語り掛けられるのでしょうか? 聖霊(御霊)は風のように自由に(ヨハネ3:8)、ご自身の「おもい」を語られるのでしょうか? もちろんそうなのですが、その言葉は父と子の言葉とかけ離れたものでは決してありません。むしろ聖霊なる神は、イエス様(子なる神)が話された言葉を私たちに思い起こさせてくださるのです。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14:26)
私たちは人として神の言葉を聞きたいと、また神の御心を悟りたいと望むものです。それならば、私たちは聖書に親しまなければなりません。今は恵みの時代、聖霊の時代と言われます(使徒2章)。しかし、その聖霊は聖書の言葉を超越して、異なる教えや新しいアイデアで語られはしません。
聖書の言葉を思い起こさせることによって、21世紀に生きる私たちに語り掛けてくださるのです。しかし、私たちがそもそも聖書の内容を知らなければ、聞いたことも読んだこともなければ、それを思い起こさせることはできません。だからこそ私たちは聖書を日ごとに読んで、心に蓄えておく必要があるのです。
でもただ思い起こさせてくださるだけなら、自分で聖書を読めば書いてあるのだから、とくに聖霊の働きが重要でないと思われるかもしれません。しかし、言葉というのは同じ言葉であっても、いつ誰がどのように語るかによって、伝わり方はかなり変わってくるものです。
特に例えを持ち出す必要もないかもしれませんが、妻が夫に対して「あなた」と言う場合も、怒っていたり、愛を込めていたり、注意を喚起したりとさまざまなニュアンスを含み得ます。
聖霊は私たち一人一人に神の言葉を生きた言葉として語り掛けてくださるのです。私たちが神の深みにまで及ばれる聖霊(Ⅰコリント2:10)の言葉に日々耳を傾けるとき、時間の流れの中にある一人一人にその時その時に応じて、必要な言葉を掛けてくださるのです。
「時宜にかなって語られることばは、銀の彫り物にはめられた金のりんごのようだ」(箴言25:11)
また、聖霊は私たちを全ての真理に導き入れてくださいます。キリストが語ることのできなかったことまでも、聖霊は私たちの心のうちに明かしてくださるのです。
「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです」(ヨハネ16:12、13)
どのようにしてでしょうか。それは聖書の言葉を思い起こさせてくださることによってです。御霊は自分から語るのではなく、聞くままに話される方なのです。このように、三位なる父子聖霊の言葉は「一」なのです。そして、その言葉を私たちが傾聴するときに、私たちは全ての真理に導き入れられ、その言葉にとどまるなら、真理は私たちを自由にするのです。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:31、32)
子なる神は、父なる神から聞いたままを語られ、聖霊なる神は、その言葉を私たちに思い起こさせてくださるのです。ゆえに三位なる神は、言葉において「一」だと言えるのです。
◇