さて前回から三位一体に関する連載を始めさせていただいたのですが、今日は最初に問題の論点を明確にし、本論に入る前に三位一体をひも解くための頭の準備運動をしていきたいと思います。
前回紹介した「なぜ三位一体は理解しづらいのか?」という記事の中に、「問題は突き詰めて考えれば『三つが一つ』の問題に終結するが・・・」とあります。その通りであって、「神は唯一ならば、お独り」であろうし、「三つの人格(位格・ペルソナ)を有しているお三方ならば、唯一神ではなく三名の神々である」というのが人間の理性の限界であり、今回の問題の論点となります。
しかし、これは理性の限界であって、感性の限界ではありません。西洋型というと語弊があるかもしれませんが、ドイツ合理主義に代表されるような左脳型人間にとって「三つが一つ」というのは、「3=1」と言われているようなもので、到底受け入れられないものです。
しかし、それでは実際に三位一体の神様を信じている人がいないかといえば、そんなことはなく、世界中のノーベル賞を受賞されるような方々や各国の大統領たちまでもが信仰に入っています。
むしろ他のどの宗教よりも多くの人が、世界中でこの神様に対する信仰を持っています。「3=1」という数式が非論理的であるにしても、人々の感性はそんなことにはおかまいなしに、三位一体なる神を真の神として受け入れ、神の愛を心の深いところで感じて信仰に入るのです。
しかし、「単に感覚的に受け入れれば良いのだ」というだけでは話が終わってしまいますので、なんとか言語化していきたいと思いますが、その時には聖書のさまざまな箇所に散りばめられているアナロジー(類比・類型)やタイプ(予型・ひな型)を追っていくことになります。
私が個人的に非常に興味深く読ませていただいている佐藤優氏は、圧倒的な論理力と知識を武器に多くの良書を書いておられますが、「世界史の極意」という本の中で、歴史や物事の本質をつかむ上においても、神学の世界で用いられるアナロジカルな方法を用いることが大切だと書かれていました。であるならば、本家の神学的考察においては、ますますそれらが重要な役割を果たすのです。
もう少しだけ前置きをさせてください。先日私は本紙編集長の宮村武夫先生とじっくりとお話をする機会が与えられ、非常に有益な時を過ごさせていただいたのですが、その時に意気投合したことがあります。
それは、聖書が有機的に書かれた書物であるということです。その時に先生は「組織神学(システィマティック・セオロジー)という用語があるが、有機神学(オーガニック・セオロジー)という言葉に変えるべきだ」と言われていました。
これは私も大賛成で、聖書にしろ、世界にしろ、人間にしろ、システィマティックな無機物ではなく、神の息吹によって生き生きと活動し、お互いが密接に結び付いて鼓動している有機的なものなのです。
ましてや神様ご自身は、それらの万物を生かしている存在であるので、数的常識や理性の範疇(はんちゅう)をはるかに超えている存在なのです。では、ここで論じるのも無駄かと言えばそうではなく、神の息吹によって霊感を与えられて書かれた聖書(Ⅱテモテ3:16)によって解くときに、同質の命の息を吹き込まれている私たち(創2:7)はそれを感受することができるのです。
数理的
その本論に入る前に、頭の柔軟体操的なものとして数的なことに関しても少し触れておきましょう。小川洋子の『博士の愛した数式』という物語の中であったか、NHKスペシャルのアインシュタイン特集か何かだったかはっきりとは思い出せないのですが、このような話を聞いたことがあります。
「『1』という数字は自明なようで難しい、1枚の葉っぱを見せて、幾つかと聞けば、誰もが一つと答えるであろうが、その同じものを手の中で握りつぶして、粉々にしたら、もはや一つとは答えられないだろう」。つまり数字というのは、数学の上では絶対的で不変なものですが、現実の世界ではちっともそうではないというのです。
有機的
なんだそんなことかと思われるかもしれませんが、まだまだ頭の柔軟体操の段階ですので、もう少しお付き合いください。さっきの「葉っぱ」も有機的なものですが、この例は別に葉じゃなくても、無機物であるガラスなどでも同様のことが言えたわけです(「ポケットの中にビスケットが一つ、ポンと叩けばビスケットは二つ・・・」という歌を連想される方もいるかもしれません)。
今度は有機物(生命)に関して考えてみます。私の妻は多肉植物が好きなのですが、多肉植物の面白い点は、その植物の一部を切り取って植えると、簡単に根付いて、もう一つの個体となることです。
切り取る前は一つの植物であったのに、簡単に複数の個体に増えていくのです。これは、人間が人為的に増やす例ですが、ミドリムシなどは勝手にどんどん細胞分裂していき、一つの個体が数億もの個体になり得ます。しかも分裂した複数の個体は、オリジナルの個体と全く違わない完璧なる個体なのです。
DNA
私たちの体もとても不思議で、髪の毛や爪などの細胞が一つでもあれば、私たちと同様のクローンが造れることが分かっています。有機的な存在は、全ての部分が完全な総体になり得るDNAを内包しているのです。
このことにしても、ミドリムシの分裂にしても、一昔前の人たちには想像もできないほど奇想天外なことですが、今は多くの人に当然のごとく受け入れられています。私たちの理性というのは意外とズルいもので、自分の理解の範疇に及ばないことは「非常識」だとしてかたくなに反対するくせに、一部の超天才たちがひとたび何がしかの理解に達すると、それらをすぐにあたかも前々から知っていたかのような自分の常識とするものです。
霊的な存在
誤解のないように言っておきますと、私は三位一体なる神様を「ミドリムシ」や「DNA」になぞらえて説明しようとしているのではありません。前置きとして書かせていただいただけです。
このように現実の世界では、数理や理性の範疇を超えた現象が多くあるものですが、ましてや三位一体の神様はこの地上の有機的な生命とも次元を異にする霊的な存在ですので(ヨハネ4:24)、その存在のありようが、理性の常識をはるかに超えていることは、むしろ普通なのかもしれません。
ただし、ただ単に「神様は人間には及びもつかないほど偉大な方である」としてしまうと、この連載をする意味もありませんので、次回からは本論に入っていきます。皆様にも一緒に考えていただきたいので、考えるための「問い」を一つだけ残していきたいと思います。
【問い】
三位一体の難しいところは、「三つが一つの問題」だと言いましたが、これが「二つが一つ」や「四つが一つ」だったらどうでしょうか? もしくは「百位一体」とかならどうでしょう?
「ああそれなら簡単に理解できる」とはならないはずです。最初の数字が幾つであろうと、複数である場合、同様の疑問が残るはずです。つまり「複数の人格(位格・ペルソナ)でありつつ、一体なる存在」というのが不可解なわけです。
しかし、実は聖書には「三位一体の神様」以外にも「複数の人格(位格・ペルソナ)でありつつ、一体なる存在」のアナロジー(類比・類型)やタイプ(予型・ひな型)が幾つかはっきりと示されています。
しかも聖書の片隅に書かれているのではなく、誰もが知っている内容として書かれています。それをぜひ皆様にも考えてみていただきたいのです。ピンときた方は、コメント欄にでも回答してみてください。正解者には、お会いできる機会があればぜひコーヒーをおごらせていただきます。
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