正しい子育て
自分自身に関しては、子育てを語る資格はないかもしれない。私はほとんどの人同様、長期的な方針や、芯のある思想もなく、古来信じられてきた日本人の道徳を精神的な支えとし、子どもたちもそういう日本古来の徳を追求するのが目標であると思っていた。
しかし、妻は違っていた。神を信じていたから、信仰をもって子どもを終始育ててきた。時には思うように進まなかったこともあったが、あくまで子どもは自分の独占物ではなく、神からの授かりものであり、大切に育ててきたことに相違なかった。
その意味で、子育てはあくまで主にあって可能であるという趣旨から、私は妻の子育ての方針は正しかったと信じている。
「あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んで、オリーブの木を囲む若木のようだ。見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける」(詩篇128:3、4)
妻の方針は、聖書に照らし合わせてみると、驚くほどよく合致している。
つまり、子どもが小さい時は両親を敬い、従順を学ばせることによって、神への尊敬と服従を学ばせるため、懲らしめを大切な方法とした(「勤勉な者の手は支配する。無精者は苦役に服する」箴言12:24)。
もちろん、神様からの授かりものを、感情にまかせて叱り飛ばすのではなく、愛をもって叱るという方法であった。子どもにはきつく感じたかもしれないが、神様が常に中に入って取り持ってくれたのだと思う。
そして、子どもがある程度成長してくると、子どもの自主性と自立を重んじ、聖書に書いてあるように、子どもを怒らせてはならない(「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」エペソ6:4)という御言葉を守った。
もちろん、妻は神様ではないので完璧でないが、愛のある励ましでもって子どもを育てた。要求しても、脅かしたり、いら立たせたりすることは極力避けていた。
私は子どもたちが今日自立して生き、仕事に喜びを持っているのを本当にうれしく思う。そして、そういうふうに育てる方針を持ち、貫いた妻に感謝している。
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