平安の心は大切か
昨年の正月は、本当に平安であった。子どもたちも一応自立し、どうやって定年後の生活を楽しもうかなど、余裕のある日々を夢見ていた。が、数日もたたないうちに、その平安は吹っ飛んでしまった。私の一見健康そうな体に、悪性腫瘍が発見されたからである。
私たちの平安は、こんなものである。何もないことは良いことだと、ほんの目先のことしか考えられず、目先に何もなければそれで良しとしている。もちろん、そんな考えで本当に平安を得ているのではなく、無理矢理自身を納得させているだけである。
「彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない」(イザヤ書59:8)
年老いてくると体が弱り、否応なしに不安な条件が整ってくる。若い時には多少の不安を犠牲にしてでも、金や地位や快楽を得ようと躍起になる。
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(箴言17:1)
私たちはある時には平安を軽んじ、ある時には平安を渇望し、本当に自分勝手な道に向かっては、さまよっている状態である。その場限りの平安しか持てない状態であり、性質であった。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」(イザヤ書53:6)
私たちは、自分自身や自分自身の努力では、本当の平安を持つことは不可能である。あまりにも多くの不安定要素が、外にも内にも存在するからである。現在の不安のみでなく、過去の悔恨や将来への不安等を一網打尽にして、一掃解決してしまわないことには、本当の平安は訪れない。キリストにある平安は、これを可能にしてくれる。神の懲らしめが私たちにではなく、イエスに降りたがため、私たちは平安を得ることができている。
「義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。わたしの民は、平和な住まい、安全な家、安らかないこいの場に住む」(イザヤ書32:17、18)
この平安は過去を清算し、現在、将来のみならず、死後のことにまで及んでおり、人類にとってこれ以上の平安はない。イエスの死と引き換えに、私たちに与えられる平安は、ある種の緊張の上に成り立っており、狭き門から入らねば獲得できないが、生涯離れないものである。
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