クラゲのまなざし
当地では近年、加茂水族館(山形県鶴岡市)の各種クラゲが大人気。年中全国から“押すな、押すな”の人々。「癒やされた」と上機嫌です。でも対照的に閑古鳥も見えない教会へのクラゲ君たちのまなざしが気になります。
ここ庄内は豊かな四季と海山の幸に恵まれ、温泉にも囲まれている。この城下町の人々は穏やかで無口。ことを荒立てず、しきたりに従って生真面目に日を過ごす。この住みやすそうな罪なき町が、伝道者をして困惑させるのです。
その発する「超越への呼び掛け」は虚空に消える。人は姿を現さず、反応や反発もなく、質問もない。こちらは彼らの宿屋に入れてもらい、たくさん話がしたいのに。「人生問題など何もないようだ」とは、この地の生んだ聖書学者、黒崎幸吉の言葉です。
この中での苦節36年の私にも慰めがないわけではありません。まずこの道行きを共にしてくれる家内はじめ少数の仲間の存在、130年の歩みの中の先人たち、近くは隣から聞こえる幼子たちの「アーメン」の大合唱です。
さらに自然からの激励があります。この町に繁茂する山野草の中には、なんと百何十もの外来種があるというのです。しかも多くは江戸末期、開国以来さまざまな仕方で持ち込まれたものだという(『鶴岡の自然』1988年)。異文化の風雪に耐えて生き続ける自然からのメッセージです。
それでも気落ちするときは、この愚かしい戦線からの撤退ないし離脱への誘惑の声を耳にすることがあります。
しかし、実際山形の教会が、あらゆる弱さ、貧しさに取り囲まれていることは事実。例えば、山形県内12の教会のうち、日曜礼拝出席者が10人に満たない群れが7、8を数えることだけ挙げておきましょう。その多くが百年以上の歩みをしているのです。
でも再三気を取り直して仲間たちにも呼び掛けているのは次のことです。
―地方伝道で養われるもの大いなり―
① 心の奥底にくだれる
ゆったりした時間と広い空間、豊かな自然の中で、天地を思い切り呼吸できること。そこで自分を顧み、内面深くに沈潜することができます。
この環境で、もしかしたらドエラク深い信仰が養われるかもしれない。目を見張るような花が、厳しい環境に咲きそめるかもしれない。都会的喧騒の中でふと手にした「真理の形骸」(ペスタロッチ)で争い合う愚が見えてくるかもしれないのです。神様の無限の忍耐と憐れみに気付く可能性もあります。自我が見事に打ちのめされ、真の利他心の花が開くかも。
② 極限的試練
しかし、キリスト教宣教史上でもまれなほど「過酷」なこの戦場で、伝道者は「死線を」歩みます。その精神は、しばしば極限近くまで試練を受けることになります。例えば、あのノア的孤立感、無用な者扱い、凶作続きの農夫の心境、自尊感情の持ちにくさ・・・など。
これらに負けて心身を病み、ついに燃え尽きてしまう危険が待ち構えています。これらと戦ってこそ「希望」について語れるのでしょうが、それだけでなく、もっと大きなことが起こるかもしれない・・・!
③ 新たなるキリスト教よ、産まれ出よ
現代日本伝道の困難には、主の隠された格別なる大御心があるのでは・・・私にはこう感じられて仕方ありません。この把握し難いアジア的風土に産声を上げる新たな信仰は、これまでよりはるかに力強く、魅力あり、また寛容にして普遍性を持った「これからの世界を救う」ものとなるかもしれない。ひょっとしたら、そんな大宗教が発生する可能性も・・・などと夢想もさせられるのです。
④ 死力を尽くすこと
しかし、このためには力と思いと心を尽くして祈り叫び、喜び感謝し、学び研究し、悔い改めねばならないでしょう。悲壮感を突き抜け、勇壮な思いを持って。
―与えてきたのは石だった!―
ここまで来て、私はさらに考えます。問題の所在はどこに? いったい誰がいけないのか?何が責められるべきなのか、と。時代や社会も悪いかもしれないけれど・・・。
「あなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない」(エレミヤ書15:19、口語訳)
さすが聖書は手厳しい。グサリとやられます。
① うまいラーメン屋すし屋は客でいっぱい
やはり、自分の与えてきたのはおいしいパンでなく石であったか。つまらないことばかり言ってきたので、「人の住まない塩地」(エレ17:6)に追いやられているのでは。
偽善から出る観念語は、へびやさそりにも似るゆえに人々は逃げていく。それは自分の見た夢であり、寝言ではないか。でも、ここは大切です。もし伝える側に責任があるとすれば、かえって希望が出てくるということです。今の時代の人々が悪いのではないからです。
② 目の中の梁
もし大きな材木(自己愛)がなお自分の中にあるとすると、周囲の世界も人々も見えるはずがありません。思うことも行うことも現実離れです。
果たして自分に東北人への愛情がどのくらいあったのだろう。自分の思いや価値観を捨てて、彼らの土俵にあがらねば・・・。その明治以来の苦闘をどれだけ理解してきたのだろう?「彼らにある実によいところを見抜かねばなりません」(教会史家、大内三郎氏)。
③ 真珠貝の格闘が
これが多くの現代日本人の内部にあります。これはあの黒船以来、圧倒的に優勢な西欧文化という異物をのみ込んでしまったためです。内部の痛み苦しみ、混沌たるや大変なものです。
宗教も多元化時代を迎え、とかく私たちも自信をなくし消極的になります。今教会の門をたたく人がわずかなこと、信徒も伝道にあまり動かないのは、お互いの貝内部の容易ならぬ闘いを知っているからでしょう。
④ まず水の一杯を
飼い主なき迷える羊たちの大群。至る所に倒れ、傷だらけで声も出ない哀歌的日本。頼るものも希望もなく、やっと生きています。そこでまずすべきは、「一杯の水」を差し出すことでしょう。そして声をかけ、介抱し、その声に反応してあげる。放置せず、仲間になり、味方となり、必要な助けを惜しまないことでは。
「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という黄金律の実践がまず先行せねば、と思います。その人にこれまで誰も話してあげたことのない「新しい言葉」で語り掛ける。これなら誰でも歓迎してくれるはずです。
⑤ 深きエンターテイナーでありたい
以上のために、私は教会に人を集めるばかりでなく、町に出、海に漕ぎ出そうと努力しています。町の各層の人たちに知られ、バラバラな人たちを結び付けるコミュニケーター、共感力豊かなカウンセラーで生涯教育者、そしてみんなを楽しませ喜ばせる、深い意味でのエンターテイナーでありたいと思います。
こういう役割を牧師が果たそうとするとき、教会はそれを理解し支援することが大事です。その働きを評価、時に称賛し、牧師をどんどん友人に紹介してほしいのです。(これがなぜかとても少ないですね)。こうするうちに、その人の語るところを聞いてみよう、という人も出てくるかもしれないのです。
⑥ ペテロに家も舟も捨てさせる力
東北は、なお先祖伝来の宗教と家制度が生きています。寺も墓地も後にする百八十度の“改宗者”が少しずつでも出てくるでしょうか。そうさせるド迫力をもった言葉を持てるかどうか。でなければ東北から教会は消えてゆくでしょう。「宣教」という世界最大の戦争での正念場がここにあります。
「神も仏もあるものか」、とよく聞きます。でもそれを言う人は、必死になって救いを求めたことのない人がほとんどでしょう。それを置いておいて、いざという時、神仏を責めるのは明らかに身勝手です。でも普段信仰というものの緊急性とその救済力を浸透させてこなかったのは、われわれ宗教者の責任。猛省しなくてはなりません。大小の津波はいつ襲ってくるか分からないからです。
救い主に出会った決定的な喜び。これがあのシメオンの経験でした。
(文・矢澤俊彦=日本基督教団荘内教会牧師・同保育園長)