憲法9条が国際社会を導く
今、何となく不安で、希望を失って悶々(もんもん)としている私たち。頭上に黒雲が垂れ込め、未来が見えないからです。でもきょう、私はそんな暗雲を吹き飛ばし、世界の将来にも希望を切り開く道のあることをお話したい。それは憲法9条の「戦争放棄」条項が、この核兵器時代において絶大な意義を持つことの自覚から始まります。
大きな別れ道に
このことが国民的覚醒にまでもたらされるかどうか、実に大きな別れ道に立っている、と私には思われます。それいかんによって、この日本が魅力なき大国追随の三流国となり下がるか、それとも「絶対非戦主義」という国是をいよいよ高く掲げ、国際社会で模範となり、全世界を破滅から救う、大いなる使命に生きる国民になるか。このあまりにも違う二つの道の選択です。
新憲法は私たちが選んだ
まず確認したいのは、敗戦後、あの9条を含む憲法を押し付けられて不本意と思う人々はいましたが、大部分の国民は「これでよかったのだ」との思いで、自分たちの新生日本の指針としてこれを受け入れ、今日まで歩んできたことです。であればこそ、このたび安倍晋三首相は、どう見ても憲法9条違反としか見えない拡大解釈を、解散や国民投票にかけず、閣議決定をもって通そうとしているのです。
しかし、この「戦争放棄」が、戦後の歩みの原点であり、その後も国是であったことは、安倍首相も8月14日の「談話」で明言しています。すなわち、武力による威嚇や行使をせず、国際紛争を解決する手段としての戦争を永久に放棄する、という崇高なものです。
威嚇、挑発の中での不安から
それなのになぜ、ここにきて「集団的自衛」の名の下に、この憲法9条という大黒柱を実質的に骨抜きにしようと躍起になっているのでしょう?
それはこの国の安全が、何となく脅かされているように感じている人が多いからでしょうか。近隣諸国からの威嚇や挑発に不安を感じるからでしょうか。われわれの防衛力は不十分、いざという時「置き去り」にされては困るというのでしょうか。日本人はもっと米国との軍事的協力関係を強めなくては、と焦っているのでしょうか。
確かな時代認識を
しかし、私たちはここで立ち止まり、じっくり考えねばなりません。そういう「安全保障」についての認識と判断は、果たして正しいものなのかどうか。「自衛隊の海外派兵」にまで道を開く法案。これが先日の談話に大きく矛盾するのは、誰の目にも明らかなのに、この法案の成立を急ぐのは、先の見えない不安のためでしょう。
首相は何とかして日本をより安全な国家にしたい、と懸命なのです。それがどうして分からないのか、といら立っているのでしょう。しかし、その政策にどれだけ深い根拠があるのでしょうか? 「深い川は静かに流れる」といいます。私の考えはこうです。
核兵器時代の到来
大きな時代の転換を自覚すること、これはなかなか困難な事業です。江戸末期、「開国すべきかどうか」で大揺れした時もそうでした。私たちが長くなじんできた水から上がるのは大変なのです。
でも今や、世界は実に「核兵器の時代」となっている。これまでの戦争や、冷戦時代ではない。全く新たな認識と思考に基づく政策が求められているのです。
時代遅れの後ろ向きの発想では、もう取り返しのつかないことになってしまいます。今、私たちが、殊に政治家たちが絶えず肝に銘じるべきは、この時代は、一国の存亡ではなく、地球全体の存続が危うくなっていることなのです。核兵器は全人類を、わずかの間で何度も全滅させる破壊力がある。核戦争において、もはや勝利者はいません。どんな問題解決もあり得ないでしょう。
ここをしっかり見ることに耐えられないと、「集団的自衛」という、一時しのぎの姑息な手段に逃げ込み、つかの間の安心を求めながら、結局、世界の危機を加速させていくとしたら・・・。それは何と愚かなことでしょう。
無論、核でない通常兵器の発達も、私たちの想像を超えています。この上は、この地上から永久に戦争をなくさねばならない。これがこの時代の至上命令なのです。
憲法9条は非現実的な夢想か
ここで燦然(さんぜん)と大きく輝き始めるのが、われらの憲法9条です。これはまさに「核兵器の時代」を予測して記されたごとくです。
この9条が発想されたとされる1946年1月のマッカーサー・幣原(しではら)会談で、当時の首相・幣原喜重郎が言い残した次の発言を記しておきましょう。
「世界は私達を非現実的な夢想家とあざ笑うでしょう。しかし百年後に、私達は預言者と呼ばれるかもしれません」(『マッカーサー回想録下』165ページ)。
生まれ変わった日本の使命
こんな憲法を持っている国は他にありません。それは、あの戦争という大きな悲劇を通して与えられたものです。日本の国は、軍国主義国家を完全に葬り去り、全く新たな非暴力・非戦の民主国家に生まれ変わった。そしてこれこそは、内外の無数の犠牲者たちの命の代償であったのです。
戦争には、善い戦争も悪い戦争もない。この発見が明治以来の長い先人たちの血みどろの苦闘の結晶である、と私は確信します。
ああ、何と不可思議なことか。私たち日本人が「世界の存続と平和のために生きよ」という使命を授けられているとは!
米国への新しい恩返し
すると、米国との関係が気になるかもしれません。しかし、これまでの軍事的協力の代わりに、「力の行使の危険」を訴え、共に平和主義の国に変身すべく応援する。アジアからの視点で、独自の影響力を与え、これまでの恩返しをしていく。これこそ自主独立の道です。
自衛隊は戦争の補完部隊として海外に行くのではなく、災害や難民救済など人道のためなら、できる限り派遣すれば大きな国際貢献となるでしょう。
世界の平和のために国民運動を
そこで私たちは今、手をこまねいている暇はありません。以上のことにつき、さらに学習するとともに、多数の人々にこの使命の緊急性に気付いてもらうよう、大きな国民的運動を展開していかねばならない、と私は考えます。家庭では親が、学校では教師が自信を持ってこのことを教え、大学では研究を深め、経済界も発想を変え、そして何より政治家が認識の大転換をすることです。そうしてこの平和憲法を世界の諸国にどんどん増やしていくこと。そのために、隣国から始めて友好関係を増進し、「不戦条約」などの締結を進めることなど、すべきことは幾らでもあります。
これは困難多き道です。しかし、どんなに希望ある歩みでしょう。敗戦から立ち上がった日本。今度は自国の繁栄以上に、世界の平和を第一にして奉仕する、大きな精神的使命に生きるのです!
幻と理想と情熱を持って
もうすぐ「安全保障」に名を借りた「戦争法案」は国会を通るだろう、と絶望的に言う人がいます。でも戦いはこれから。しかも課題は、地球大の平和なのです。
やがて解散もあり、憲法をめぐる国民投票も行われるでしょう。それに備え、もっと学習し、周囲の人々や政治家に働き掛けていくこと。そしてこの高い理想を持って情熱的に生きること。うつうつ悶々などしてはおれません。頭上の黒雲など、吹き飛ばすのです。私もこれから、日々お会いする人ごとに、キリストも伝えますが、この使命と幻について語り続けようと思っています。
終わりにもうひと言。この運動を強めていくには、次の精神を養っていきたいということです。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かねばならない」(「ユネスコ憲章」前文、1946年)。これこそ非戦と非暴力のとりでです。
(文・矢澤俊彦=日本基督教団荘内教会牧師・同保育園長)