病人讃歌の非常識
今のままでは日本人は幸せになれない。なぜなら、私たちがしがみついているものには命がないのに、だまされているからです。
こういう診断をくだしているのは、鴻池雅夫牧師。山形県の鶴岡で50年働き、この1月に去って逝かれた方です。まずこの人の本の題には驚き、いぶかしく思わせられます。すなわち、『老人讃歌』『病人讃歌』『弱者讃歌』・・・。老人や病人を讃美し、弱者になっておめでとう、と言う。こんな常識はずれの考えがあるだろうか、と思う。私たちのほとんどは、「若さがいい。年は取りたくないもの」「健康がやはり第一。病気はイャ」などと考えているからです。でもこれと正反対の見方がこの書にあるのです!
ニセの神々に酔わされ
偽りの神々とは、若さ、健康、経済(お金)、自立、スピード・・・。それに伴う能力、経歴、美貌、稼ぎ、快楽・・・こういったものをどれだけ必死に求めていることでしょう。それを持たない人は、「人間失格」であるがごとくです。でもそれを得て、本当に幸せになった人はいるのでしょうか。これが問題です。上っつらの幸せ(ヒルティ)の中を少し泳ぐことはできたかもしれません。でも不思議な充実に日々全身が包まれ、「生まれてきてよかった」と心の底から思い、突き上げてくる忘我的喜びの中で、いつでもこの世を去り逝ける、いやすでに天国への階段を昇り降りしている天使のような境涯に・・・。こんな深い幸いからはほど遠いのではないでしょうか?
超高価な粗悪品
開けてみると、煙りと消えるつぼがある。宝島に近づいてみれば、上陸不能のゴースト・タウンがある。若さも、体力も、能力も、お金も、名声も、いつどんな形で失われるか分かりません。特別のことがなくても、それらはたちまち衰え、霧のように消えていくでしょう。でも私たちは繰り返し同じものに飛びつき、人生の大半を無駄にしているのです。
悪魔たちの大笑が
そこでサタンが呵呵大笑するこの国となってしまいました。面白いように、老いも若きもワナにかかる。大津波が来たときは「しまった」と思ったけれど、大した被害に遭わなかった人々は、今は安心と、もう忘れてしまっている。厚く張った”煙幕“が抜群の効果を発揮しているからです。目隠しももう何重ですから、周囲が見えるはずがありません。良い麦より「毒麦」を食べてしまうのです。
弱くなって見えてくる
なぜ「弱者讃歌」なのか? それは、強さを求める現代人の迷妄に、弱き立場に落とされ、しがみついていたものから振り落とされて、初めて気がつくからです。そこでやっと本物が見えてきます。ニセの神々が「チェッ」と舌を鳴らして去っていく。そこで初めて真に頼れるものを求め、祈りたくなるのです。
そうだとすれば、病気や老化はなんと素晴らしいことではないでしょうか。人間になりそこなっていた自分に気づかせてくれるのですから。持てる一切をなくして帰ってきた「放蕩(ほうとう)息子」(ルカ15章)を父親が歓迎し、大祝宴を開いたように、本物の喜びがやってくるからです。
鴻池さんは、病院を「やさしさの最期のとりで」と呼び、娑婆(しゃば)では生まれにくい人間的出会いの場と考えました。認知症のお年寄と腹をかかえて笑い合うそのとき、「永遠の今」の体験をした、と記しています。私は、「真の信仰」は、もしかしたら今の教会より病院で誕生するかもしれない、と思いました。今、生かされている喜び。「チョウ1匹が飛ぶにも全宇宙が必要です」(クローデル)との思いも心に浮かんできます。
富者には分からない喜び
それにしても病み衰える前に、この深い闇を追い払うことは無理なのでしょうか? 大震災や戦争も、「何事もなかったかのように」通り抜け、平然としている人々。自分だけ生きようとする傲然ぶりです。人間はなんと怖く、勝手なものなのでしょう。敗戦の結果作った今の社会は、若く元気で、稼ぎ手でないと人にあらずといった恐ろしいものです。迷惑をかけるから、と自殺する病人老人がそれを象徴しています。
若さや健康が最高と思っている人は、弱い人を押しつぶしています。神と富の両者に仕える偽善者です。「幸いなるかな、貧しき者」。良いものを持っている人が、天国に入るのは難しい。それより「ラクダが針の穴をくぐるほうがもっと易しい」。驚愕させられたキリストの言葉も、今は納得がいきそうです。そのキリストが相手にされたのは、多くが病人、障がい者、精神病者、子どもであり、何も持たない貧民、また社会ののけ者でした。聖書はこういう人たちの喜びで満ちています。でも豊かな人たちは、見事に退けられているのです。信仰も中途半端では、みんなに重荷を負わせるだけ。味を失った塩です。この点で、宗教家はどれほど責任があることでしょう。人を救う力を持たず、世にも相手にされていないのは、この時代の社会のせいばかりではないのです。
弱き者よ、歌い踊れ
私たちはどん底から引き上げられねばなりません。目もくらむばかりの大きな喜びを得たいものです。それはもしかしたら今の時代、誰もまだ味わっていないものかもしれないのです。「弱き者よ、喜び歌え」。幸せどころか、自分が死んでいるのに気づかない、死屍累々にして阿鼻叫喚の巷なるこの国の中で、声高らかに歌おうではありませんか。老人よ、病人よ、障がい者よ、全ての弱者よ、神に叫べ、泣け、すがれ! キリストにいやがられるほど?つきまとえ! 1週間に10日、教会を訪ねよ!
さあ皆さん、これからは天国を毎日上り下りしながら、この喜びを伝える人になろうではありませんか。でなければ、伝道者を助けよう。お金をささげよう。祈ろう。みんなで今度は、弱者や病人が最も大事にされる国、喜ばしい華やいだ人々の声で町々が満ちる国にしようではありませんか!
(文・矢澤俊彦=日本基督教団荘内教会牧師・同保育園長)