父なる神、子なる神、聖霊なる神、つまり三位なる神が、いかに「一」なのかについて、三つのテーマで論じてきました。
一つ目は、「三位なる神は互いに対する尊重と謙遜と愛の故に、『おもい』を『一』とされる」というものであり、二つ目は「子は父から聞いた言葉そのままを語られ、聖霊はその同じ言葉を私たちに思い起こさせてくださる方である。故に三位なる神は言葉において『一』である」というものでした。
そして三つ目は「父子聖霊は別々の三つの名(複数)を有しているのではなく、御名(オノマ)は『一(単数)』であり、神様は御名において『一』である」というものでした。今回は少し異なる角度から三位なる神が「一」であることを論じたいと思います。「うちにおられる方」という題名をつけさせていただきました。
父と子
「父なる神」と「子なる神」は、今まで何度も言及してきたように、位格(ペルソナ)の異なる方です。しかし、神は複数なる存在ではなく、「一」なる存在です。それは「おもい」「言葉」「御名」において「一」である故なのですが、別の言い方をしますと、「父なる神」は「子なる神」のうちにおられ、「子なる神」は「父なる神」のうちにおられる故に「一」だとなります。ちょっと理解し難いかもしれませんが、それは当時のユダヤ人たちも同様でした。
「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。・・・ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです」(ヨハネ10:31~33)
キリストがご自身を「神の子」として世に現したときに、当時の人々は当惑し、石打ちにして殺そうとしました。天におられる唯一の神の他に「神の子」が人の姿で地に来られたとなると、神が2人(複数)になってしまい、彼らの伝統的な唯一神信仰と衝突したのです。そんな彼らに対して答えられたキリストの証言が、本日のメーンテーマとなります。
「もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです」(ヨハネ10:37、38)
「父がわたしにおられ、わたしが父にいる」とはどういうことなのでしょうか。このことは、キリストに敵対した人々だけでなく、愛弟子たちにも理解できないことでした。ですから「父なる神」と一体である「子なる神」が目の前にいるにもかかわらず、弟子たちは「父なる神」を見せてくださいとキリストに願ったのです。
「ピリポはイエスに言った。『主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します』」(ヨハネ14:8)
キリストはこの弟子にも、先ほどの箇所と同様のことを語られました。
「わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです」(ヨハネ14:10)
「子なる神」は「父なる神の」うちにおられ、「父なる神」は「子なる神」のうちにおられる方だと、明確に宣言しています。それ故、位格の異なる「父」と「子」は、「一」なる神なのです。
言葉は明確なのですが、このことは神様の次元のことですので、地にいる私たちには理解し難いことです。しかし、完全には理解できないにせよ、私たちは神様の似姿に似せて造られた人間を通して、神様の理解を深めることができます。
男と女
聖書では、普通の現代語の表現とは違う表現をすることが少なくありませんが、男女の営みについて新改訳聖書においては「知った」「入った」などと表現されます。私が幼いときは、これらの表現が何を意味するのかよく分かりませんでした。特に男性が女性に「入る」というのは、理解の範疇(はんちゅう)を超えていました。一つだけ聖書箇所を引用しておきましょう。
「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ」(ルツ記4:13)
※Ⅰ歴代誌7:23参照
もちろん今ではそのことが分かるのですが、同時にもう一つのことにも気付きます。それは、男性が女性に「入る」と同時に女性も男性の胸のうちに「入る」ということです。今引用した箇所の少し前には、そのことが象徴的に表現されています。
「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」(ルツ記3:9)
ルツ(女性)はボアズ(男性)の中に入り、彼におおわれることを願ったのです。このように愛し合う男女が互いのうちに入り、「一」となることを指して聖書はこのように表現するのです。
「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった」(創世記2:24、25)
もちろん三位なる神が性的に交わるという意味ではありません。しかし、愛し合う関係にある男女が互いのうちに入ることにより「一体」となるということは、「子なる神」が「父なる神の」うちにおられ、「父なる神」が「子なる神」のうちにおられるということを多少なりとも理解するのに助けとなるはずです。
聖霊
それでは聖霊(御霊)についてはどうでしょうか。聖書を2カ所確認してみましょう。
「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた」(ルカ4:1、2)
「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします」(ヨハネ15:26)
イエス(つまり「子なる神」)は聖霊に満たされていたと書かれています。またそのイエスは父なる神のもとから、「父から出る真理の御霊(聖霊)」を遣わすと約束してくださいました。すなわち「聖霊なる神」は「子なる神」のうちに満ちておられる方であり、また「父なる神」のもとにおられる方であることが分かります。
つまり三位なる神は、お互いのうちにおられるのであり、それ故に「一」なる方であるとういうことが言えます。そしてこの概念は、これまで話してきた内容とも同義の関係にあります。それはどういうことでしょうか。
三位なる神は「おもい」と「ことば」と「御名」において「一」であると言いましたが、こう表現することができるのです。
三位なる神は互いのうちにおられる故に、「おもい」と「ことば」が「一」なのであり、「おもい」と「ことば」を「一」にすることによって、互いのうちに住まわれるのである。そしてこの「一」なる神には、それぞれ個別の(つまり複数の)名前があるのではなく、ただ「一」なる御名(オノマ「単数形」)があるのである。
そして驚くべきことに、その「一」なる神は、私たちにも三位なる神と同じ、「おもい」と「ことば」を持つように願われているのです。そのことによって神は私たちをもまた、三位なる神の親しい交わりのうちに招き入れてくださるのです。
「もし、あなたがたがわたしの戒め(「ことば」と「おもい」)を守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです」(ヨハネ15:10)
※ヨハネ6:56参照
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