私が最初に小さな疑問を持ったのは、こんな経験からでした。私の父は若いときにキリスト教に入信しましたので、その当時に購入した聖書や聖歌を大切に使っていました。
当然今となれば、そのどちらもボロボロなのですが、特に捨てる必要もないのでそのまま使っているようです。そうすると私たちが使っているものと、微妙に言葉が変わっている箇所があることに気付きます。
それは当然のことで、どちらも年々改訂版が出てくるので多少の言葉の変化などはあるわけです。ところが、新聖歌282の「見ゆるところによらず」の三番を一緒に歌うときには「ずいぶん違う歌詞だな」と感じました。現代の改訂された歌詞はこうです。
3 己が聖きを もて誓う
父なる神は 真実なり
しかし、父が持っていた古いオリジナルの歌詞はこうでした。
3 己が聖きを もて誓う
エホバの神は 真実なり
なんと原作の三谷種吉氏の詞から「エホバ」の名が削られ、「父なる神」へと差し替えられているのです。これと似たことは、聖書翻訳においても起こっています。
旧約聖書においてモーセに啓示された大切な神様の名は、ヘブライ語の「יְהֹוָה」という神聖四文字(テトラグラマトン)で、日本語表記では「エホバ」や「ヤハウェ」とされています。
このヘブライ語の「יְהֹוָה」を、初期の日本語聖書である文語訳聖書においては、「エホバ」と表記していますが、口語訳聖書や新改訳聖書においては、太文字の「主」としています。
旧約聖書において、神の名「יְהֹוָה」は数多く出てきますので、それが「主」と表記されるか、「エホバ」と表記されるかによって聖書全体の印象はかなり変わってきます。
キリスト教人口の多いお隣の国、韓国においては、日本の文語訳に相当する古い言葉の聖書が主に使われていて、同箇所は「主」ではなく「ヨフォワ」(日本のエホバとは多少発音が違いますが、同義)としているため、教会のメッセージや祈りにおいても、「ヨフォワ」という神様の名が多用されています。
半面、今の日本の教会では、「エホバ」や「ヤハウェ」という名を聞くことは皆無となっています。ではなぜ、これらの改訂が行われたのでしょうか。幾つかの理由が考えられます。
みだりに唱えるべからず
一つには、古代イスラエル民族がヘブライ語聖書(旧約聖書)を読むときの伝統と関係しています。
「あなたは、あなたの神、主(יְהֹוָה)の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」(申命記5:11)
彼らは、名をみだりに唱えてはならないという箇所があるために、「יְהֹוָה」の箇所を朗読するときには「アドナイ(主)」と読み替えていたのです。しかし、「みだりに唱える」というのは、今日の英語において「くそったれ」や「ちくしょう」と言いたいときに、「Jesus!!」と叫ぶようなことを指すのであって、敬虔な心で神様の名を唱えることは、「みだりに唱える」ということにはなりません。
正確な発音の問題
上記のことと関連して、長い間「唱え」られてこなかったために、当時の正確な発音が分からなくなってしまったという事情を理由に挙げる方もいるかもしれません。現代の研究では「エホバ」より「ヤハウェ」の方がオリジナルに近い発音であるとされているようです。
しかし、そもそも外国語の名前を日本語表記するときに、正確な表記などはできるわけがありません。どちらがより近いかという比較の問題なのです。
新約聖書の「イエス」という御名にしても、英語では「Jesus(ジーザス)」とされていますし、原語では「イェスアー」のほうが近いと言う方もいます。ですので「エホバ」は正確な発音でないからといって、「主」としましょうという根拠にはならないわけです。
エホバの証人の台頭
私は、エホバの証人の方々が台頭してきたことが、聖書や聖歌から「エホバ」という表記が消えていったことと関係していると思っています。日本において、エホバの証人は戦後から1980年代まで毎年7パーセントほどの成長率で増加しました。驚異的な成長率です。
そして、彼らは三位一体を否定し、「イエス」を大天使ミカエルだとし、「エホバ」こそが唯一なる神の名だと主張します。これに対して教会側は、彼らの主張と一線を画するために、また「イエス」の名による以外に救いはないこと(使徒4:10~12)を強調するために、「エホバ」を「主」や「父なる神」という表記に置き換えていったのではないでしょうか。
主と置き換えてしまうことによる弊害
こうして神様がご自身の名としてモーセに啓示した名(出エジプト3:14、15)を、現代の教会が失っていることは、どのような弊害をもたらすのでしょうか。レムナント誌を発行している久保有政氏はご自身のサイトの中でこのように解説しています。
詩編110:1は、口語訳では、「主は、わが主に言われる、『わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ』」となっています。この最初の「主」と、次の「主」とは、同じなのでしょうか。・・・これは原語のヘブル語を見れば明らかなことです。この句は、「ヤハウェは、わが主に言われる・・・」となっているのです。そしてさらに「わが主」は、「神の右の座」(神の次の位)におられる主キリストのことですから(マタ22:44、コロ3:1)、これは、“神ヤハウェは、主イエス・キリストに言われる”の意味であることが、わかります。
I列王記18:39は、「主こそ神である」と訳されていますが、これでは同義語反復――同じような意味の言葉の繰り返しでしょう。しかしこれは原文では、「ヤハウェこそ神である」です。これなら、明瞭な意味の言葉になります。ヤハウェの御名を「主」と置き換えたことは、どれほど多くの損失をもたらしたでしょうか。
久保有政先生は、神の名である「יְהֹוָה」を「主」と置き換えてしまうと、聖書の真意が喪失してしまう箇所が出てくると指摘されていますが、非常に的を射たものであると思います。
イエスの名とエホバの名の有機的なつながり
この問題を解くためには、「イエス」の名と「ヤハウェ(エホバ)」の名の有機的なつながりを理解する必要があります。私たちはどちらかの名だけを取捨選択しなければならないのではないのです。「イエス」の名とは、「ヤハウェは救い」という意であり、「イエス」の名は「ヤハウェ」の名を内包した名であるからです。詳しくは、「三位一体の神様(7)神様の御名」を読み返してください。英語ではJehovah-savedと解説されています(e-Sward H3091項参照)。
父子聖霊の名
またエホバの証人の方々が考えているように、父の名が「エホバ(ヤハウェ)」であり、神の子の名が「イエス」であるから、「エホバ」の名の方が優った重要な名であるというのも誤解です。これまでも述べてきたように、父子聖霊の御名(原語:オノマ)は複数あるのではなく、単数形であり、三位なる神は御名において「一」なるお方であるからです(マタイ28:19)。
エホバかイエスかではない
私たちは、「エホバ(ヤハウェ)」か「イエス」の名の二者一択を迫られているわけではないのです。神様は歴史の流れの中でご自身を御名として啓示されてきました。その有機的につながりのある全容をその豊かさと共にそのまま感受していけばよいのです。神様の名はこのように啓示されてきました。ぜひ参照聖書箇所をじっくりと読んでみてください。
アブラハム時代 「エルシャダイ」⇒万軍の神(出エジプト6:3)
モーセ以後 「ヤハウェ(エホバ)」⇒自存される神(出エジプト3:14、15)
新約時代 「イエス」⇒人類を救う自存される神(ルカ1:31、ヨハネ17:26)
私たちは、エホバの名のみを強調してイエスの名を格下げする必要も、反対にヤハウェ(エホバ)の名を隠匿(いんとく)する必要もないのです。三位なる神は御名において「一」なるお方なのですから。
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