今までは、ルツの真実と信仰について確認してきました。彼女は義理の母に真実を尽くし、イスラエルの主を自分の神として仕えるために、異国の地で落穂拾いという過酷な労働に就くことを志願しました。
そしてそのルツを守ったのは、神様のあわれみの法でした。律法は冷たい裁きの道具という性質を持っているようにも見えますが、ボアズは神の法の精神(父の心)を汲んで、ルツに親切な態度をとり、食事まで与え、そして僕(しもべ)たちにこのように言いました。
「それだけでなく、あの女のために、束からわざと穂を抜き落としておいて、拾い集めさせなさい。あの女をしかってはいけない。」(ルツ記2:16)
これこそが父なる神様の、私たち一人一人に対する心です。今日からはルツ記に示された神様の摂理について、さらに詳しく御言葉を確認していきたいと思います。まずは、ボアズが最初にルツに会ったときに何と言ったのかを確認してみましょう。
「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ記2:11、12)
ルツはイスラエルの敵であるモアブ人でした。ですから、彼女は追い出されても不思議はなかったのですが、ボアズに親切にされ、神のあわれみの法に守られて、彼女は安心して働くことができました。続きを読んでいきましょう。
こうして彼女は、夕方まで畑で落ち穂を拾い集めた。拾ったのを打つと、大麦が一エパほどあった。(ルツ記2:17)
一エパというのは23リットルに相当するそうで、2人で2週間以上もパンを食べることができるほどの量だそうです。彼女はよく働き、多くの収穫を得て、義母ナオミの元へ帰りました。
彼女はそれを持って町に行き、しゅうとめにその拾い集めたのを見せ、また、先に十分食べてから残しておいたのを取り出して、彼女に与えた。(ルツ記2:18)
ルツはボアズに与えられた食事をも残しておき、ナオミにも分け与えました。彼女は過酷な労働の中でも自分のことだけを考えたのではなく、家で空腹にしている義理の母ナオミのことを気に掛けていたのです。
それを見たナオミは、ルツの心遣いをうれしく感じたことでしょう。そして、彼女が一生懸命に働いたことを見て取ったでしょう。しかし同時にナオミは、異変に気が付きました。それはいくらルツが働き者でも、1日に1エパ(23リットル)もの大麦を集めることは不可能だからです。そこで、ナオミはルツにこのように尋ねました。
「きょう、どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目を留めてくださった方に祝福がありますように。」(ルツ記2:19)
そこでルツは、その日に起こったことをそのままナオミに告げ、「きょう、私はボアズという名の人の所で働きました」と言いました。それを聞いたナオミは、そのボアズが自分の近い親戚であることに気付き、不思議な思いに満たされました。そして、こう言いました。
ナオミは嫁に言った。「生きている者にも、死んだ者にも、御恵みを惜しまれない主が、その方を祝福されますように。」それから、ナオミは彼女に言った。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです。」(ルツ記2:20)
さて、私たちはボアズがルツを助けた姿に、主の私たちに対する「あわれみの心」を感じるのですが、ボアズ自身は、自分が人を救うことができないことを知っていました。彼は裕福な者であり、ルツやナオミの苦難を知っていたのですが、決して「私があなた方を、その苦境から救い出してあげましょう」とは言いませんでした。彼が言ったのはこうでした。
「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ記2:12)
ボアズは、人が人を救うのではなく、イスラエルの神「主」が人を救うのだということ、ルツが人の庇護を求めてモアブから来たのではなく、主の翼の下に避け所を求めて来たのだということを知っていたのです。
だから彼は、束からわざと穂を抜き落としておいて、ルツが多く拾い集めることができるように配慮はしましたが、決して穂の束を与えようとはしませんでした。束からわざと穂を抜き落として拾わせるくらいなら、そのまま穂の束をあげれば良さそうなものですが、そのようなことはしなかったのです。
これは、ボアズとしては最大限の配慮でした。中国の老子の言葉だという説もあり、ユダヤ教のタルムードが起源だという説もあり、定かではありませんが、「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」ということわざがあります。
もしも、ボアズがこの日、穂の束をルツに与えていたら、その日はそれで良かったかもしれませんが、そのあとボアズは毎日ルツに穂の束を与えなければならなくなります。しかも、困っている人はルツだけではありませんから、他の人にも与えなければ不公平になってしまいます。
彼は、自分が神様の代わりに人を救うことができないことを知っていたのです。私たちも互いに助け合うべきですが、最終的に人をその翼の下で庇護し救うのは、イスラエルの神「主」お一人であるということを心に留めましょう。
さて、ルツがナオミに起こった出来事のすべてを報告したとき、ナオミは、ルツが親戚のボアズに出会ったことを喜びました。しかしナオミは、ただ単に親切なお金持ちがルツに良くしてくれたということを喜んだのではありませんでした。
ナオミは、ルツが出会ったボアズこそが困窮し切った彼女たちの「ゴエル」であるということに気付いたので喜んだのです。彼女はルツにこう言いました。「その方は私たちの近親者で、しかも買い戻しの権利のある私たちの親類のひとりです」
私は以前、「買い戻しの権利のある親類」という聖書箇所に注釈があったので、気になって調べたことがあるのですが、それが原語で「ゴエル(ヘブル語 “גָּאַל” gâ'al、英語 guardian-redeemer)」という言葉であることを知りました。あまり聞き慣れない言葉だと思いますが、この概念は聖書全体の神のご計画を理解する上で非常に大切なものです。レビ記を確認してみましょう。
あなたがたの所有するどの土地にも、その土地の買い戻しの権利を認めなければならない。もし、あなたの兄弟が貧しくなり、その所有地を売ったなら、買い戻しの権利のある親類が来て、兄弟の売ったものを買い戻さなければならない。(レビ記25:24、25)
これが買い戻し「ゴエル」の法です。私たちはここにも、父なる神様の心を感じます。主は、人々が自発的に働き、努力し、豊かな収穫を得ることを奨励しておられます。しかし同時に、凶作や戦争などの故に、自分の畑を手放さざるを得ない者たちに対して、セーフティーネットを用意してくださったのです。
前回確認した通り、今すぐ食べるものがない貧しい者や在留異国人のためには、主が落穂拾いの法を定めてくださいました。そして、もう一つ定められたのが、このゴエルの法です。それは、兄弟や親類が貧しさの故に土地を手放した場合、近親者がそれを買い戻すように定めた法です。
もしもこの法がなければ、一度土地を手放した家系は二度と土地を得ることはできず、子々孫々、貧しさが連鎖したことでしょう。しかし、主はセーフティーネットを用意され、人々が苦境に陥っても希望を失わないようにしてくださったのです。これが私たちの父なる神様のあわれみの心なのです。
さて、ヘブル語のゴエルという言葉について、もう少し詳しく見ていきたいと思います。これは「買い戻しの権利」と訳されていますが、必ずしも近親の土地を買い戻すだけでなく、時には実際に命を懸けた戦いによって捕虜となった近親者を取り返すことなども、ゴエルとしての役割に含まれました。
アブラハムは、甥のロトが他の国の王たちによって捕らえられたときに、一族を集結してその救出に当たりました(創世記14:14)。またヨセフは、自分の親兄弟と親戚のすべてを、大飢饉から救出しました。かつて彼を奴隷として売り飛ばした兄弟たちに、彼はこう語り掛けました。
ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。(創世記50:21)
これらの話は、すべてゴエルというのがどのような役割であるかを私たちに教えています。つまりゴエルとは、近親の窮地を、それがいかなる状況であれ、お金や命の犠牲を払って救出したり、買い戻したりする者(守護し贖[あがな]う者)を指しているのです。アブラハムもヨセフも、ゴエルとして兄弟や親類を助けました。ボアズもこの後、ルツやナオミに対してゴエルとしての役割を果たしていくことになります。
家族や親せきが互いを助け合う共同体というのは、非常にパワフルです。よく言われることですが、中国人やユダヤ人は血縁によって一族が結束し、大きな成功を収めています。彼らだけではありません。家族や親戚同士が助け合う国や人々は、経済的に貧しいとしても、笑顔や活力があります。私も、かつて二度も大きな病気を患い、家で療養しなければならない期間が長くありました。その時に家族の支えがなければ、どうなっていたか分かりません。
とはいえ、「お互い、家族の危機にひんして助け合いましょう」というのが、聖書のメッセージの中核ではありません。もちろん、家族同士助け合うのは良いことですが、それが今回のメッセージではありません。
これらのメッセージの中心は、イスラエルの神「主」が私たちの買い戻しの権利のあるお方「ゴエル」であるということです。先ほども言いましたが、究極的に人をその御翼の下で加護することのできる方は、イスラエルの神「主」ただお一人です。アブラハムもヨセフもボアズも皆、父の心を私たちに伝えるために用いられた人々なのです。
主は、私たちが危機に陥るとき、いかなる犠牲を払ってでも守り、救い出してくださるお方です。そして何より、主は私たちを罪の奴隷状態から解放してくださいます。土地を失うことは、当時の人にとって農奴となることを意味していました。しかし人にとって、それ以上に絶望的なことは、罪の奴隷であるということです。
そこで父なる神様は、キリスト・イエスを私たちの、買い戻しの権利のあるお方「ゴエル」として遣わしてくださり、キリストは十字架の上で命(血)の犠牲を払って私たちを罪の奴隷から買い戻してくださったのです。そして私たちの、困難、イタミ、孤独、悲しみ、病をすべてご存じで、私たちをご自身の御翼の下に守ってくださるのです。
最後にボアズがルツに語り掛けた言葉を、主が私たちに語り掛けてくださった言葉として心に刻みましょう。これが父なる神様の私たち一人一人に対する言葉であり、主の祭りに際して心に留めるべき御言葉なのです。
「私はすっかり話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。」(ルツ記2:11、12)
※本紙のコラムにすべてを書くと長くなり過ぎてしまいますので、さらに詳しく知りたい方は、拙著『ルツ記 聖書の中のシンデレラストーリー(Kindle版)』をお読みください。
※「ゴエル」という言葉に関して、リベロ神父の「ゴエル(go'el)の神学」というページから、多くを学ばせていただきました。
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