今までは、ルツの真実と信仰について確認してきました。彼女は義理の母に真実を尽くし、イスラエルの主を自分の神として仕えるために、異国の地で落穂拾いという過酷な労働に就くことを志願しました。そして前回はボアズが、ルツとナオミの買い戻しの権利のある者であるという話をしました。買い戻しの権利と訳されている言葉はヘブル語で、ゴエルと言い、聖書全体を理解する上でとても大切なキーワードとなります。今日もルツ記の続きを共に見ていきましょう。
しゅうとめナオミは彼女に言った。「・・・ところで、あなたが若い女たちといっしょにいた所のあのボアズは、私たちの親戚ではありませんか。ちょうど今夜、あの方は打ち場で大麦をふるい分けようとしています。あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行きなさい。しかし、あの方の食事が終わるまで、気づかれないようにしなさい。あの方が寝るとき、その寝る所を見届けてから入って行き、その足のところをまくって、そこに寝なさい。あの方はあなたのすべきことを教えてくれましょう。」(ルツ記3:1〜4)
冒頭から、尋常ではない会話がルツとナオミの間でなされています。先週も語った通り、ナオミはボアズが自分の親戚で、買い戻しの権利のある者(ゴエル)であることを知っていました。しかし彼女は、単にボアズが行動を起こすのを待ったのではなく、積極的な行動を取るようにルツに言ったのです。その言葉を聞いたルツの反応はどうだったでしょうか。
ルツはしゅうとめに言った。「私におっしゃることはみないたします。」こうして、彼女は打ち場に下って行って、しゅうとめが命じたすべてのことをした。(ルツ記3:5、6)
女性の方から、男性の寝ているところへ行くというのは、簡単なことではありませんが、ルツはナオミを信頼していましたので、ナオミに対して、「私におっしゃることはみないたします」と言いました。では、実際にその後どうなったのかを確認してみましょう。
ボアズは飲み食いして、気持ちがよくなると、積み重ねてある麦の端に行って寝た。それで、彼女はこっそり行って、ボアズの足のところをまくって、そこに寝た。夜中になって、その人はびっくりして起き直った。なんと、ひとりの女が、自分の足のところに寝ているではないか。彼は言った。「あなたはだれか。」彼女は答えた。「私はあなたのはしためルツです。」(ルツ記3:7〜9)
これにはボアズも驚きました。確かに彼は、ルツが働き者であり、義母に対して真実を尽くす者であることを知り、親切な言葉を掛けてきましたが、このような大胆な行動に出てくるとは夢にも思わなかったのです。そのボアズに対してルツはあることをお願いしました。続きを読んでみましょう。
「私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。」(ルツ記3:9)
ルツはボアズに対して、「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」と語りました。実は、これはとても意味深な言葉です。今日はこの言葉に注目したいと思います。ところでボアズの返答はどうだったでしょうか。
すると、ボアズは言った。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。」(ルツ記3:10、11)
ボアズはルツのことをしっかりとした女であると言っています。英語では“noble”となっていて、気高い、高潔、崇高なという意味です。そして、この夜のルツの行動を「真実」であると言っています。
一見すると、お金持ちの男性のところに夜、こっそりとやってきた、破廉恥で失礼な行動とも取れますが、ボアズはなぜ彼女をこのように称賛したのでしょうか? このナオミとルツの行動と、ボアズの言葉を理解するためには、申命記に書かれている神様の定めを理解しなければなりません。
兄弟がいっしょに住んでいて、そのうちのひとりが死に、彼に子がない場合、死んだ者の妻は、家族以外のよそ者にとついではならない。その夫の兄弟がその女のところに、入り、これをめとって妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が産む初めの男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。(申命記25:5、6)
聖書の定めによると、ある女性が夫と死別した場合、その女性は死んだ夫の兄弟と結婚しなければならなかったというのです。そして生まれた最初の子どもに、死んだ人の名を継がせ、その家系が消え去られないように主が定められたのです。
前回私は、弱い立場の人の窮地に、近親の者がゴエルとしての役割を果たすことが聖書に定められていると言いましたが、その役割には、夫を亡くした女性を妻として迎え、その人生のすべてに責任を負うことも含まれていたのです。ルツの夫の兄弟は、同じ時期に死んでしまいましたので、その役割は近親者であるボアズに回ってきたのです。
ですから、ルツは自分が好意を持ったお金持ちだからという理由でボアズに近づいたのではありませんでした。実は、ルツが自然と恋心を抱くには、ボアズはかなり年上でした。しかし、ルツはこの神様の律法に従おうとしたのです。そして、それはナオミも同じ心だったのです。
このことを察したボアズは、ルツが老母ナオミに仕えるために故国を捨ててまで付いて来たという彼女の「先の真実」にも増して、このことに感銘を受け「あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています」と彼女の行為をたたえたのです。そして、ボアズはこのことを誰の目にも後ろ指を指されないように正しく取り扱おうと心に決めました。当然その夜のうちに、彼女と関係を持つなどという軽薄なことはしませんでした。
さて、ルツは「こっそり行って、ボアズの足のところをまくって、そこに寝た」とあります。またルツは、ボアズが彼女の買い戻しの権利を持った人(ゴエル)であることを知って、彼に対して「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」と言いました。
これは非常に象徴的な場面です。以前にも言いましたが、ボアズ自身は意識していませんが、聖書の中において、ボアズはイスラエルの神「主」を象徴する者として書かれています。ですからルツがボアズの覆いに覆われるということは、「主」とイスラエルの人々の関係性を私たちに絵のように見せているのです。そのことを理解するために、エゼキエル書に書かれている、象徴的な描写を見てみましょう。
わたしはあなたを野原の新芽のように育て上げた。あなたは成長して、大きくなり、十分に円熟して、乳房はふくらみ、髪も伸びた。しかし、あなたはまる裸であった。わたしがあなたのそばを通りかかってあなたを見ると、ちょうど、 あなたの年ごろは恋をする時期になっていた。わたしは衣のすそをあなたの上に広げ、あなたの裸をおおい、わたしはあなたに誓って、あなたと契りを結んだ。――神である主の御告げ――そして、あなたはわたしのものとなった。(エゼキエル書16:7、8)
ここではイスラエル民族(ユダヤ人たち)が成長し、大きくなっていったことが、人の娘のように描かれています。そして、主が彼女の上に衣のすそを広げて、彼女を覆ったとあります。主がイスラエル民族と契約を結んだことが、男女の婚約の契りのように描かれているのです。
男女の関係のように書かれていますが、当然のこと、神様と人が性的な関係を持つという意味ではありません。これは、主がイスラエルの加護者(ゴエル)となられ、ご自身の覆いの下にイスラエルを守るという宣言なのです。
私たちは神様や天国を見たことがありませんから、いくら言葉で説明されても理解することはできません。聖書はそんな私たち人間が、何とかして感覚的に大切な真理を悟れるように、多くの出来事、比喩、モチーフを通して、霊的な世界、天の御国、神と人との関係をイメージすることができるように書かれているのです。その一つが今読んだ箇所であり、また、先ほどのルツとボアズのシーンなのです。
力もなく富もなく、相続地を失い、自力ではどうすることもできなかったルツが、ボアズの「覆い」の下に庇護を求めました。この一見すると破廉恥とも取れる場面は、弱く力なく、罪を犯してしまうイスラエル(ユダヤ人)が、主の衣の下で、主と契りを結び、加護されるということを予見していたのです。
前回私は、ゴエルという言葉の意味について語りました。それは、近親の窮地をいかなる状況であれ、お金や命の犠牲を払って、救出したり、買い戻したりすることでした。そしてそのことは、主がイスラエルをご自身の御翼の下に加護されるということを意味していました。そして今日の聖書箇所も、私たちに同様のことを語っているのです。
ルツは「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」と語りましたが、この覆いとは主の翼を象徴しているのです。英語の他の訳(NKJVほか)では、「あなたの翼(wing)の下に、このはしためをおおってください」となっています。
7週の祭りの期間、ユダヤの人々はルツとダビデ王を記念すると私は言いましたが、ボアズとルツのひ孫に当たるダビデ王は、神の翼の下に庇護(ひご)を求めるということの意味を誰よりもよく分かっていた人でした。詩篇にはそのような表現が満ちています。少し引用してみましょう。
- 神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。 (詩篇36:7)
- 神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。(詩篇57:1)
- 私は、あなたの幕屋に、いつまでも住み、御翼の陰に、身を避けたいのです。(詩篇61:4)
- あなたは私の助けでした。御翼の陰で、私は喜び歌います。(詩篇63:7)
- 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。(詩篇91:4)
ダビデは、イスラエルの歴史の中で最高の王様でした。彼は多くの戦いで、勝利に勝利を重ねた王でした。ルツがボアズの庇護を受けざるを得なかったのは、その苦境の故だったと理解できますが、富と力と名声に満ちた王であるダビデが主の翼の下に庇護を求めたということは注目に値します。
ダビデは、自分の魂の問題を考えるときに、いかに人間として最高の地位にいたとしても、偉大な神の前には庇護を、あるいは恵みや助けを求めざるを得ない存在であることを悟っていたのです。そして、ダビデは主の翼を、主の「恵み」「あわれみ」「幕屋」「助け」「喜び」「真実」「大盾」「とりで」という言葉と共に表現したのです。
これらのことは、主とイスラエルの関係でありますが、私たちとも無関係ではありません。なぜならこれらはすべて、新約時代の私たちとキリストの関係を私たちに教えるために書かれたものだからです。
ルツは他の娘たちが恋心を抱く若い男性を追わずに、主の律法に従って買い戻しの権利者(ゴエル)であるボアズの覆いの下に庇護を求め、彼と契りを結ぶことを願いました。ボアズはルツの真実をたたえ、彼女に「あなたの望むことはみな、してあげましょう」と約束しました。
私たちもキリスト・イエス以外のものに目を奪われない者となりましょう。私たちの目には魅力的に映るものが、世の中には多くあります。お金、成功、地位、名誉、快楽などです。しかしそれらのものは、けっして私たちの魂を守ってくれることも、贖(あがな)ってくれることもありません。それらのものに覆われたとしても、それは岩に覆われるようなもので、私たちの魂は平安を得ることはありません。ヨハネの黙示録にはこのような描写があります。
地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。(黙示録6:15、16)
終わりの時、キリスト・イエスの御翼の覆いの下に来ようとしない人々が、山や岩の覆いの下でかくまわれることを願うようになるというのです。しかし当然のこと、山や岩は人を傷つけこそすれ、人を加護してはくれません。
私たちの罪と弱さを贖うために、命をも惜しまれなかったキリスト・イエスだけが、私たちの魂を永遠の滅びから買い戻してくださる方であり、私たちの魂の「恵み」「あわれみ」「幕屋」「助け」「喜び」「真実」「大盾」「とりで」なる方です。私たちの魂を買い戻す権利のある、ゴエルなるキリスト・イエスの覆いの下に加護を求めましょう。主は喜んで私たちの弱さや罪を覆い、私たちと永遠の契りを結んでくださいます。
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