さて今までは、ボアズが、ルツとナオミの買い戻しの権利のある者であるという話をしました。買い戻しの権利と訳されている言葉はヘブル語で「ゴエル」と言い、近親者の危機を救い贖(あがな)う者として律法によって定められていました。そして、ゴエルの役割を果たす者が、単なる経済的な支援をするだけでなく、男女の契りを結んで、相手の人生すべてに責任を持つことまでが律法によって定められていることを確認しました。
前回は、ルツが夜中にボアズのところに来て、「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから」とボアズに頼んだところまで読みました。続きを読んでいきましょう。
「さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」 (ルツ記3:11〜13)
ボアズは、ルツが夜中に来たことを破廉恥で失礼な行為だとは捉えませんでした。むしろルツが他の若い男性の後を追わず、主の律法に従って近親者(ゴエル)なる自分の元に来たことを彼女の真実として称賛しました。そして彼は、ルツが真実な女性であると気が付いていましたので、ルツの申し出を快く受け入れようとしました。しかしそこには、整理されなければならないことがありました。それは、その町にボアズよりも、もっと近い買い戻しの権利のある親類がいたということです。ですからボアズは、事を早急には進めませんでした。
こうして、彼女は朝まで彼の足のところに寝たが、だれかれの見分けがつかないうちに起き上がった。彼は、「打ち場にこの女の来たことが知られてはならない」と思ったので、「あなたの着ている外套を持って来て、それをしっかりつかんでいなさい」と言い、彼女がそれをしっかりつかむうちに、大麦六杯を量って、それを彼女に負わせた。こうして彼は町へ行った。(ルツ記3:14、15)
ボアズは、ルツが自分の所に来たことが知られると、話がややこしくなると思い、彼女を暗いうちに家に帰しました。ただ手ぶらで彼女を帰らせたくはなかったので、大麦6杯を彼女に与えました。そして、ルツはナオミのいる家に帰りました。
彼女がしゅうとめのところに行くと、しゅうとめは尋ねた。「娘よ。どうでしたか。」ルツは、その人が自分にしたことをみな、しゅうとめに告げて、言った。「あなたのしゅうとめのところに素手で帰ってはならないと言って、あの方は、この大麦六杯を私に下さいました。」(ルツ記3:16、17)
待っていたナオミは気が気ではなく、おそらく寝ないでルツの帰りを待ったのだと思います。そして、ルツに何があったかを詳細に聞きました。そのことを聞いた彼女は、一言、預言めいたことを言いました。
しゅうとめは言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい。あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから。」(ルツ記3:18)
今日はこの言葉に注目したいと思います。
当初ボアズは、ルツに親切にはしましたが、自分から積極的に動こうとはしませんでした。しかしルツやナオミの想い、そして主の律法に従おうとする真実を見た彼は、ルツと契りを結び彼女のゴエル(保護し贖う者)となることを決意しました。
しかし、先ほども言いましたが、その町にボアズよりも、もっと近い買い戻しの権利のある親類がいました。もしもボアズがその人を無視して、ルツとナオミの畑を買い戻し、ルツを嫁に迎えてしまうと、主の律法よりも自分の想いを優先してしまうことになります。彼はあくまでも、主の律法に従って事を進めようとしました。そしてこう言いました。
「朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。」(ルツ記3:13)
私たちは、自分で良いことだと判断する場合、もしくは自分が強く望むことである場合、主の御言葉を自分の都合の良いように解釈して、勝手に納得し、行動を起こすことがあります。しかしボアズはそのようなことはせず、 あくまで主の定めた律法、主の定めた秩序に従おうとしました。そして、それはルツも同様でした。
さて、ナオミはルツに「あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから」と言いました。この箇所を読んで最初に私が気が付いたことは、この時すでに、ルツとナオミの問題がボアズの問題となっているということです。ボアズはもともと裕福であり、何の問題もなく過ごしていました。しかしいつの間にか、彼は問題の当事者となっていたのです。
私はここ数回、ヘブル語のゴエルという言葉に注目して書いています。そしてこの言葉は日本語では「買い戻しの権利」と訳されています。ですから何も知らずに読むと、まるで何か親類の土地を購入して自分の地所を広げられる「権利」のように読み取るかもしれません。しかし、この言葉は「権利」というよりも「義務」や「責任」という意味合いが強い言葉です。そして、人の困窮や窮地を救い出す義務と責任を最終的かつ包括的に担ってくださるのが主なる神です。主はイスラエルに対し、このように語りました。
あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。ーー主の御告げーーあなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。(イザヤ41:13、14)
「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」。ここで「贖う者」と訳されているところもヘブル語の原語では、ゴエルとなっています。
主はイスラエルの人々に対し、近親者の危機を見過ごさず、買い戻さ(救い出さ)なければならないと「義務」としての律法を与えられたのですが、驚くべきことにその義務をご自身で負ってくださるというのです。主がイスラエルを救われる話は、聖書の中に多く出てきます。前にも言いましたが、主はヨセフを遣わしイスラエルを飢饉から救い、モーセによってエジプトから解放し、戦いの度にサムソンやギデオンなどの士師を起こして他国から守られ、ダビデを起こして王権を確立し、預言者たちを遣わして捕囚の地から民族をつれ戻されました。そして、ついにキリスト・イエスをこの地に遣わし、神はイスラエルだけでなく、全人類を永遠の滅びから救い出すゴエル(保護し贖う者)となってくださったのです。
聖書には神様の2種類の言葉が記録されています。一つは律法であり、もう一つは福音です。長く教会生活をしていても、この2つを区別できない方が多くいます。どちらも神の言葉ですから、私たちはどちらの言葉も大切にしなければなりません。しかし、そこには明確な違いがあります。主は人に対して、近親者の危機や困窮を見過ごさず、買い戻さ(救い出さ)なければならないと、権利ではなく義務として命じられました。これが「律法」です。
しかし主は不思議なことに、その律法の「義務」や「責任」をご自身で負ってくださったのです。そしてそれこそが、神の愛のメッセージ「福音」なのです。地上の王たちは、部下や僕たちに命令を下すとき、その「責務」を自分で負うことはあり得ません。例えば、王様が部下や奴隷たちにピラミッドを作るように命じたとして、それがいくら大変そうに見えても、「みな大変そうなので休んでよい、後は私が一人で頑張って造ろう」とは決して言わないでしょう。しかし、主はご自身で命じられた律法の義務と責務をご自身で負ってくださったのです!!
本文に戻りましょう。事の顛末(てんまつ)を聞いたナオミはルツに対して「あの方は、きょう、そのことを決めてしまわなければ、落ち着かないでしょうから」と言いましたが、この「落ち着かないでしょう」という言葉は、英語では「the man will not rest」(彼は休まないでしょう)となっています。ボアズはルツやナオミの問題の当事者になってしまっただけでなく、いつの間にか、問題を解決するまでは休めない(落ち着かない)というような状況になっていました。そして、ボアズはイスラエルの主を象徴している「型(タイプ)」ですから、事を解決するまで休まない(落ち着かない)のはイスラエルの主なのです。詩篇にはこうあります。
主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。(詩篇121:3〜7)
主は、「まどろむこと」も「眠ること」もなく、「すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる」 方だとあります。
そして、キリストも人としてこの地に来られたときに、休む間もなく神の国の福音を宣べ伝える働きを続けられました。時に彼は食事をする時間もまともに取ることができませんでした(マルコ3:20)。1カ所で人気を博し人々に歓迎された後も、すぐに別の町々に移動して行きました。ある箇所で人々から認められたのならば、そこにしばらく留まる方が楽だと思いますが、彼は人々から歓迎され接待されて休むことを目的とはされませんでした(マルコ1:38)。
そしてついに、彼は十字架の死に至るまで激しい苦難の道を最後まで歩き通してくださいました。キリストは休むことなく御言葉を語り、文字通りご自身の命を犠牲にして血を流し、私たちを永遠の滅びから買い戻してくださったのです。
しかし、なぜ主は律法を人々に与えられただけでなく、その責任と義務をご自身で負われ、命の犠牲を払われ、休むことなく働いてくださるのでしょうか。
それはもちろん、主が花嫁なる皆様一人一人を深く愛してくださっているからです。ボアズにしても、もしそこに自分よりも近い近親者がいるのであれば、彼にゴエルとしての責務を任せ、自分は休めばよかったはずです。しかし彼は、この時すでにルツを愛し、ルツを自分の花嫁にしようと心に決めていました。そこで彼は主の律法を無視することなくルツを迎えるために、休むことなくすぐに次の行動に出たのです。
そして、このボアズはキリストの姿を私たちに見せているのです。キリストは、ゴエルとしての役目を果たし、罪と死と絶望の中にいる私たちを贖いだすために、休むことなく十字架の道をまっとうしてくださいました。そしてそれだけではなく、「今も」休むことなく、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださっているのです(ローマ8:34)。そしてそれは、主が花嫁なる皆様一人一人を深く愛してくださっているからなのです。
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