今回でルツ記の連載は終わりますが、最後にとてもとても大切なことを書きます。すべてのキリスト者に知ってほしい内容ですので、最後まで読んでいただけると幸いです。
先週までの場面は、ルツが夜中にボアズのところに来て、「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類(ゴエル)ですから」とボアズに頼み、それをボアズが承諾したところまで読みました。しかしその町には、ボアズよりも、もっと近い買い戻しの権利のある親類がいたのです。ですからボアズは翌朝、「休まずに」すぐに行動に出ました。
一方、ボアズは門のところへ上って行って、 そこにすわった。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類の人が通りかかった。ボアズは、彼にことばをかけた。「ああ、もしもし、こちらに立ち寄って、おすわりになってください。」彼は立ち寄ってすわった。それから、ボアズは、町の長老十人を招いて、「ここにおすわりください」 と言ったので、彼らもすわった。
そこで、ボアズは、その買い戻しの権利のある親類の人に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。」すると彼は言った。「私が買い戻しましょう。」(ルツ記4:1〜4)
ボアズは、この問題を解決するために、下手な策を弄(ろう)することはありませんでした。主の律法に従い、自分よりも近い親類の男に事情をすべて正直に話しました。それを聞いた彼は「私が買い戻しましょう」と答えました。この時ボアズは、内心穏やかでなかったかもしれません。しかし努めて冷静に、続けて主の律法の定めを彼に告げました。
そこで、ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」(ルツ記4:5)
前にも言いましたが、「買い戻しの権利」というのは、「権利」ではなく「義務」や「責任」という性質の強いものです。ボアズは土地を買う権利だけでなく、亡くなった者の妻であるルツを嫁に娶り、彼女と彼女の亡き夫の家系すべてに責任を負わなければならないという律法の定めを確認したのです。これを聞いた彼の反応はどうだったでしょうか?
その買い戻しの権利のある親類の人は言った。「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」(ルツ記4:6)
彼は土地を買うことだけならできると考えましたが、異国人モアブの貧しい女性の人生、そして亡くなった親類の子孫を残すということまでは負いきる覚悟がなかったのです。彼の返答を聞いたボアズは、このように宣言しました。
そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。」(ルツ記4:9、10)
ボアズは、自分の想いを優先して主の律法を無視するようなことはせず、長老たちの前で公然とこの問題を取り扱い、そして胸を張ってルツを自分の妻とすることを宣言しました。これを聞いた長老たちはボアズを祝福しました。ボアズはこうしてルツを正式に花嫁として迎え、彼女の人生すべてに責務を負う「ゴエル」となりました。これは主の定めであると同時に、彼がルツを愛したからこそ、起きたことでした。
ところで、ゴエルとなる人の条件は近親者であることでした(レビ記25:24、25)。人間同士の関係で親類同士が助け合うというのは理解できますが、以前確認したように、主はイスラエルの人々に定められた律法の「義務」と「責任」をすべて一身に背負われ、ご自身自らイスラエルのゴエルとなってくださることを宣言されました(イザヤ41:14)。これはどういうことなのでしょうか?
だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖(あがな)ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ書43:1)
主はイスラエルを造り出し、形造った方だとあります。つまり、神様はイスラエルの「親」のようなお方なのです。親は当然のこと、子どもの一番の近親者です。ですから主は積極的に、イスラエルのゴエル(保護者・贖う者)となってくださったのです。
そして新約時代にはキリストが、全世界の人々の霊魂のゴエル(保護者・ 贖う者)となってくださいました。旧約時代、豊かな人は貧しい近親者を養いました。そして、主は何度もイスラエルを国家的な危機から救われました。しかし、それらのことによっては解決されない問題がありました。それが人の霊魂の奥深くに根ざしている「罪」の問題です。人は自分の霊魂の内にある悪意、ねたみ、欲望、嫉妬、怒り、不安、つまり罪の問題をどうすることもできませんでした。 そこでキリスト・イエスが十字架の上で命の犠牲を払い、私たちの罪を永遠に贖ってくださいました。これが福音です。
ところで、私たちのゴエルとなってくださったキリストは、私たちの近親者なのでしょうか? 最近ではイエスがマグダラのマリアと結婚していて、実は子どもを残していたという説も飛び出しています。もしそうなら、彼の血を引く末裔たちは彼の遠い親類だと言えるかもしれませんが、そんなことはないわけです。
それどころか、聖書はキリストが処女マリアから生まれたと証言していますので、彼は上の世代とも下の世代とも、血によってはつながっていません。ですから通常の意味においては、キリストは誰の近親者でもなかったのです。にもかかわらず、キリストは私たちのゴエルとなってくださいました。それはなぜなのでしょうか? そのことを深く理解するために、ヘブル書を引用したいと思います。
聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。」(ヘブル2:11、12)
感謝なことに、キリストは私たちを兄弟と呼んでくださるというのです。しかしなぜイエス様は私たちを兄弟と呼んでくださるのでしょうか? その理由として、文字通り受け取るのを躊躇(ちゅうちょ)するほどの衝撃的な内容がさらりと書いてあります。
「聖とする方も、聖とされる者たちも、 すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで」
「聖とする方」とは間違いなくキリスト・イエスのことであり、「聖とされる者たち」というのは彼を信じるキリスト者(私たち)のことです。 そして、彼が私たちを兄弟と呼んでくださる理由とは、「元は一つ」であるからだというのです。
この箇所に戸惑う方は多くいます。キリストは罪なき、いと高き方であり、子なる神ご自身です。そして私たちは、罪ある弱き人間であり、地に属する被造物です。ですからキリストと私たちが「元は一つ」というのは、感覚的にも、神学的にも非常に抵抗があるのです。そこで英語の聖書のNIVなどは「同じ家族(of the same family)」というようにオブラードで包んだような表現に変えています。他の聖書の訳では、「一つの源」(新共同訳)、「一人の方 」(口語訳)から出ているとあります。「元は一つ」ということに関してはいろいろと解釈があるでしょうが、今回は聖書をそのまま並記するに留めたいと思います。
もう一度確認しますと、キリストは通常の血縁という意味においては、誰の近親者でもありません。しかし、彼は私たちを「兄弟」と呼んでくださいます。その理由は、彼も私たちも「元は一つ」であり、「一つの源」「一人の方」から出たからだというのです。ですから彼は近親者として私たちのためにゴエルの務めを果たしてくださる方として、ふさわしい方なのです。
ボアズよりも近い近親者の男は、お金で土地を買い戻すことには同意しましたが、ルツを花嫁として迎えて、彼女の人生のすべてに責任を持つということには尻込みしました。しかし、ボアズは彼女を覆いの下に迎え、「休まずに」行動し、貧しい敵国モアブの女であるルツを嫁にし、喜んで彼女の人生すべてに責任を負うことを、長老たちや人々の前で公然と宣言しました。
また、覚えているでしょうか、イスラエルの神は、イスラエル民族が弱く裸のような状態であったときに、彼らを御翼の下に覆い、永久(とわ)の契りを結び、イスラエル民族を最後まで加護すると約束してくださいました(エゼキエル16:8)。
これは私たちのゴエルなるキリストにも同様のことが言えます。彼は私たちの罪(dept=負債)を血によって贖い、永遠の天国を約束してくださっただけでなく、私たちを愛する花嫁として迎えてくださるのです。使徒パウロはこのように言っています。
というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。(2コリント11:2)
ところでキリストの花嫁となるという意味を理解するために、男女が契りを結ぶということに関して、私たちは創世記を確認しなければなりません。
人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。(創世記2:23、24)
有名な話ですが、聖書は、「女」が「男」から取られ造られたと記録しています。つまり男女はもともと「一体」であったのです。そして、ここからが大切なポイントなのですが、「それゆえ」「男は・・・妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」とあります。 つまり男から取られた女が、結婚によって男と再び結び合わされ、「ふたりは一体となるのである」と聖書は語っているのです。
このことに対して、「信じられない」「非科学的だ」などと言う方も多くいますが、それはあまり重要ではありません。なぜならこのことはキリストと私たちの関係を指しているのであり、それこそが聖書が語りたいことだからです。今読んだ創世記を解説しているエペソ書を確認しましょう。
「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5:31、32)
男女の契りに関して、エペソ書は「私は、キリストと教会とをさして言っているのです」と明言しています。男女がもともと「一体」であり「それゆえ」契りを結ぶことにより「ふたりは一体となる」ように、私たちとキリストも 「元は一つ」であり、「それゆえ」主は教会(私たち)を兄弟と呼んでくださるだけでなく、花嫁として迎えてくださり、かの日には主と教会(私たち)は「一体となる」というのです。驚くべき内容ではないでしょうか。これは神学的な話ではなく、主のご計画された「偉大な奥義」です。
ボアズはルツを嫁に迎えることによってゴエルとしての役割を果たし、完全かつ永続的にルツをその窮地から解放しました。また、主はイスラエル民族が弱く裸のような状態であったときに、彼らを御翼の下に覆い、永久(とわ)の契りを結ばれました。同様に、キリストは十字架の血の代価によって、罪のゆえに絶望していた私たちの魂を贖い、ご自身の翼の覆いの中に守ってくださり、花嫁として迎え入れてくださるのです。ですから私たちは、二度とキリストから離れることはないのです。
これらのことが、私たちが主の祭りに際して覚えるべきことであり、ルツ記の中に秘められている主のご計画なのです。
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