マルセ先生による電話伝道を通して、御言葉が少しずつ心に浸透していった頃、初めて預言を受けた調布のSY教会より、海外の素晴らしいミニスターの方を招いた“特別礼拝のお誘い”を受けました。「イエス・キリストを、もっと知りたい」思いも募り始め、また教会に対しての拒否反応も和らいできていたので、参加を決めました。
当日、教会に入った途端、熱く満ちあふれる「力」に、Xでは決して得られない「生きている!解放されている!」実感を得ました。聖霊充満の中、S先生が「さあ、主に感謝の賛美をささげていきましょう!!」と呼び掛け、皆が力強く「ハレルヤ~!!!」と叫ぶと立ち上がり、元気なバンド演奏に乗り、賛美を始めました。
両手を上げ、ジャンプし、踊り、ボルテージは急上昇!私の概念にあった、静かなパイプオルガンの音に乗せ、歌本を手に直立不動で合唱・・・というイメージが一気に吹き飛びました。「天使にラブソングを2」のクライマックス、ゴスペルコンサートのシーンで、ウーピー・ゴールド・バーグ扮するデロリスの指揮に、子どもたちがパワフルに「Joyfull Joyfull」を歌い上げるシーンを思い出しました。
牧師のS先生が米国生活の経験者だと伺っていたので、「これがアメリカンスタイルなのか?!」と思いましたが、後に、それが「聖書的な賛美」だと知りました。当時の私は、Xからの固く重い「宗教の霊」に縛られていたため、元気には歌えませんでしたが、小さな手拍子と声で、辛うじて調子を合わせました。
しかし、メッセージ後に「祈りタイム」となったとき、皆が一斉に「異言」で祈り出すと、アウェイ感が大爆発!! 力強く“解読不能”の言葉の祈りが放たれる中、何も知らない私にとっては、その光景は余りにも異様であり恐怖で、そのうち息苦しくなってきて「帰りたい!帰りたい!帰りた~い!!!」と、心の中で叫び続けました。きっと、私の背後にいた悪霊が嫌がっていたのでしょう。
礼拝後、S先生が交わりランチにお誘いくださいましたが、いたたまれなかった私は、「諸用がある」と断り、慌ててSY教会を逃げ出しました。「Xに戻ろう!やっぱり教会は危険な所だ!だけど、マルセ先生に何と言って断ろう・・・」と、悩みました。再び闇へ落ちようとしている私に、悪魔は「入り口は違うが、最終的に“同じ神”にたどり着く」という論理を与えたのです。
マルセ先生に、そのことを電話で伝え、イエス様から逃げようとしました。すると、「私も以前、そう思っていた時があったけど、それは違うよ。【ヨハネ14:6】に、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません』と、書いてあるの。これは私の救いの御言葉。イエス・キリストを語らないものは、真の神様ではないんだよ」と、悟されました。
「聖書は偽りの書」と信じ込まされていた記憶が呼び起こされ、「都合良く書いてあるだけだ」と思い込もうとしましたが、その御言葉は、私の心に一雫、「イエス様の血潮」を落としたのです。それは内側で次第に大きくなっていきました。 が、悪魔も必死に引き戻そうと、「自分が信じていたもの(X)が悪いものだと思いたくない」という“プライド”に揺さぶりをかけ、Y氏が起こした数々の病を癒やした奇跡について見解を求めました。
「悪魔は、お金や名誉などの欲望をかなえることはあっても、病気を癒やしたり、悪霊を追い出して人助けをすることはしないのでは?」と。すると、マルセ先生から「悪魔も自分を信じさせるため、癒やしを行うこともある。私たちを『愛し、恵み、生かす』ためではなく、ただ『盗み、殺し、滅ぼす』【ヨハネ10:10】目的のために」。その証拠にと、【第2コリント11:14】「サタンさえ光の御使いに変装するのです」、【マタイ7:15】「にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼(おおかみ)です」、【マタイ24:24】「にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます」など、マルセ先生を通して主が解き放つ一つ一つの御言葉が、私の心にかけられた「魔術」の力を打ち砕いていきました。
それでもなお、食い下がる闇の支配者たち。霊の世界で繰り広げられる神様と悪魔の戦い! しかし、極め付きは、「Xにいて、幸せになった?」と聞かれたとき・・・何も言えませんでした。その時、悲惨な自分の現実にハッと気付いたのです。まるで、オセロのピースが黒から白に次々ひっくり返っていくように、“大きな思考の転換”が起き始めました。そこからさらに御言葉が、私の霊の目から悪しき覆いを払いのけていったのです。
確かに、Xで“大きな奇跡”を受けた体験者たちが、その後、ことごとく以前より不幸になっていたのです。例えば、ある男性信者は、事故で「足切断」と言われるも、波動と墓参りで癒やされ、切断を免れましたが、後に同じ足を骨肉腫に侵されました。
また、重い腎臓病を抱えながら奇跡の出産を果たした女性信者たちは、ある人は透析、ある人は緑内障発症と病気が重症化、さらに全員が離婚し、家計が破綻。そのため病を押して働かなければならない日々。中でも透析患者となった人は、昼夜のダブルワークを余儀なくされました。2人の小さな子どもを抱え、離婚した夫が失業後、働かなくなり、そのまま同居し続けたからです。
他に、裕福であっても(一番欲しい)子どもが授からない夫婦の人たち、精神を病む人たち、若くして亡くなる人たち etc・・・「幸せが続かないのは、墓をいじられているのが原因」と、大量のお清めグッズを購入し、旅費を使って必死で墓参する・・・が、幸せになるどころか、どんどん不幸に落ちていく“負のスパイラル”。
これらのことを裏付ける御言葉を、マルセ先生が教えてくださいました。【マタイ7:17~20】「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」、【マタイ12:43~45】「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります」
「Xの教えは間違っている! 私はイエス様について行く! もう、戻りたくない!」。そう決心した矢先・・・Y氏から電話が入ったのです 。
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