病で弱り切っている者を、主観的正義で裁き、許すことなく責め続けた、X教の熱烈信者たち。その人たちをいさめられないXの実態。その後、間もなくして訪れたDさんの死は、同世代で仲が良かっただけに、とても悲しいものでした。が、この出来事が一つの気付きを与えてくれました。「これが、 本当の“神”と名乗る存在の“愛”なのか?弱っている者を、激しく責め立てるだけで助けない。Dさんの行為は、そんなに責められることだったのか?そもそも、Xに愛はあるのか?」
疑念が、心の中に湧き上がってきました。そんな私を恐れさせようとしてか、鏡に映った顔に「死」を意識させ、自己崩壊に向かわせようと、悪魔は攻撃を開始したのです。しかし、それは同時に、イエス様の「救済計画」が、本格的に始まった瞬間でもありました!
「死」への恐怖がピークに達そうとしたとき、1本の電話がかかってきました。マルセまゆみ先生からでした。マルセ先生は、私が現在所属する「主イエスの恵み教会」の牧師です。芸人時代の先輩でした。私が芸能界から閉ざされていたときも、変わらず“プレイヤー”として見てくださり、ライブやイベントなどの仕事に声を掛けてくださいました。
体調を崩され、連絡が思うように取れない時期もありましたが、ある年、年賀状で「クリスチャン」になられたことを知り、「癒やしの祈りもします」とのことでしたが、教祖Y氏から「教会に神はいない。行くとマイナスの気で体を壊す。クリスチャンといると気を抜かれる」と脅かされていたので、祈っていただくことはできませんでした。しかし、不思議とマルセ先生には、“気を抜かれる”と思ったことはありませんでした。
電話は、仕事のオファーでした。先生の地元、茅ヶ崎市にある、社会福祉法人「C」が主催する「U音楽祭」の司会を一緒にしないか?というものでした。先生は、「C」主催の別イベントの司会を、「エンジェル」時代の元相方、増渕さんと毎年されていて、その年初めて(2012年11月)、「U音楽祭」の司会も、と依頼を受けたそうなのですが、増渕さんの都合が付かず、どうしようかと考えていたとき、私のことを思い出された、ということでした。
「U音楽祭」は、幾つもの場所にステージブースを設け、さまざまなジャンルの団体が多数出演する大イベントで、その1ブースを担当してほしい、というものでした。久々のタレントとしてのお仕事、やりたい思いは山々でした。しかし、「筋腫で大きいお腹はスーツも着れない。生理になったら大変。場所も遠いし(2時間以上)・・・」と思い悩みました。
「衣装は気にしなくていいよ。私はスカジャンだから(笑)。体調的に大丈夫なら一緒に」との言葉に、幾分和らぎましたが、即決する勇気は出ず、「考えます」といったん電話を切りました。
この時、私の中で“戦い”がありました。「そんなみっともない体型で人前に立つのか?恥ずかしい。生理になったら大変だろ。電車を乗り継いで2時間以上も掛かる所に行くのは無理だ。1日仕事は疲れるぞ。ブランクが長過ぎるだろ。しかも、そんな鼻詰まり(副鼻腔炎)の声で、うまくできる訳がない。 失敗するぞ。千葉さん(マルセ先生の旧姓)に迷惑を掛けるぞ。やめとけ。やめろ、やめろ、やめろ・・・」。責め立てる闇の声は、どんどん大きくなっていき、たまらず耳をふさぎ、胸をかきむしりました。
「無理だ!絶対無理だ!・・・でも・・・やりたい!本当はやりたい!どうしたらいい?誰か助けて!助けてください!!」と絞り出すような声で叫びました。と、その時です!「行きなさい。大丈夫」と言う声が、遠くから聞こえた気がしました。その声に気付いた瞬間、闇の声は消えました。さらに、「行きなさい。大丈夫。大丈夫」と、その声は何度も思いに繰り返し響きました。そして、スポンジに水が染み込むように、私の体に染み込んでいったのです。
とても優しい声でした。体が熱くなっていきました。声は、どんどん私の中で大きくなっていきました。きっとイエス様だったのでしょう。すると、私の中に「大丈夫。私はできる!だから行く。行かなきゃ!行きたい!」との思いが増していき、気付いたら、マルセ先生に「やらせてください!!」と、電話をしていました。
「音楽祭」の司会は、無事成功しました。現役時代、最も苦手で、緊張し過ぎてガチガチに縛られていた私が、不思議と終始リラックスして、ブランクを感じないくらい、軽快にアドリブジョークも飛び出して、とても和やかで楽しいものとなりました。まさに、「主の平安」がありました。
終了後、お礼のごあいさつをしに、先生の担当ブースに立ち寄りました。立ち話で短い時間でしたが、久々の再会でしたから、離婚したこと(さすがに年賀状に書けず^^;)、数々の病気になっていることなど、近況を報告しました。すべてを聞いてくださった後、「癒やしの祈りをしましょう」と、私のお腹に手を当てていいか?と尋ねられました。
X教に洗脳されていた私は、一瞬身構えましたが、不思議と拒否する気は起きず、「お願いします」と受け入れたのです。当てられた先生の手の温もりに、とても優しいものを感じました。 その時、「気を抜かれる」恐怖心は消えていました。きっと、キリストの道へと入る「門」の近くまで来ていたのだと思います。
そして数日後。再びマルセ先生から電話がありました。「教会に行ってみない?」と・・・。
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