テネシー州ナッシュビルのクライストチャーチとの交わりが深まるにつれ、各方面から支援やさまざまな展開の方向性を頂いた。「支援」とは、具体的に「復興支援のために」として献金を頂くことであった。一方、「展開の方向性」は多岐にわたった。具体的に、モリース氏の物語(日本のために命を燃やし尽くした)をメディアに流してはどうかと打診されたり、クライストチャーチ来日の支援グループをNPOとして立ち上げてはどうか、と提案されたりしたことである。
その中で一番反応が良かったのが、京都市とナッシュビル市、またはお隣のフランクリン市との間に何らかの公的提携を結べないか、という企画である。これに真っ先に反応したのがフランクリン市であった。クライストチャーチの教会員の多くがフランクリン市から教会へ来ていることもあり、彼らのツテでなんとフランクリン市長のケン・モーア氏に会えることになったのである。これを聞いたナッシュビル在住のクライストチャーチ教会員も黙っていなかった。これまた自分たちのツテで紹介くださったのは「在ナッシュビル日本国総領事館」であった。
ご存じのように、総領事館は日米の文化交流の懸け橋となる働きも担っている。そのため、クライストチャーチの働き、特に復興支援のために尽力してくれたことを総領事に報告することで、ナッシュビル市長らと面会することができないか、と彼らは考えたのであった。教会員の一人が、総領事館にツテがあったそうである。
私は早速その教会員の方とナッシュビル都心にある「総領事館事務所」を訪れた。そしてナッシュビル市長カール・ディーン氏とナッシュビル姉妹都市委員会委員長のヘザー・カニングハム氏を紹介されたのである。
ここまでが2011年の出来事。そして翌年2012年に、フランクリン市長ケン・モーア氏、ナッシュビル市長カール・ディーン氏と面会することが許されたのであった。彼らは京都市との公的な提携にも前向きであるという。事前に京都市役所を訪れ、事の概要を話して協力を要請していたことは言うまでもない。残念ながら京都市にとって「姉妹都市提携」はすでに全世界の各都市と結んでいるため、これ以上増やすことは難しいらしいが、友好都市として何らかの文化交流のために公的な関わりを持つことは問題ない、との回答を得ていた。
ブリッジ・ミニストリーでの感動的な奉仕体験の翌日、私たちは(学生も含め)皆パリッとしたフォーマルな服を着て、フランクリン市庁舎前にたたずんでいた。ケン・モーア氏との面会である。その日の午後にナッシュビル市庁舎でカール・ディーン氏と面会予定があった。今でもこの日のことを思い出すと、胃のあたりがきりりとする。緊張が皆の中に漂う一日であった。
フランクリン市庁舎は、南北戦争の戦場跡地を思わせる歴史的な遺産が展示されていて、異国情緒豊かな造りであった。ある部屋に通されると、よく映画で見るようなマフィンとオレンジジュース、コーヒーなどが並べられていた。案内してくれた方が「ここで自由に食べていてください」と言葉を加え、その場を立ち去ったが、誰も用意された品々に手を伸ばしたりはしなかった。緊張のあまり、誰も何も話さない時間が流れていった。
待つこと数十分、正面の扉が開いて、ケン・モーア氏が軽やかに入ってこられた。そして握手を求められ、クッキーやマフィンを勧められた。印象的だったのは、彼の屈託のない笑顔である。「子どもの頃からこんな顔していたのかな?」と、場違いなことを考えていたことを今でも覚えている。
その後、和やかに歓談の時は過ぎていった。私もまとめておいたクライストチャーチのビデオをお見せし、彼らの活動の素晴らしさを拙い英語でお伝えした。彼らは熱心に話を聞いてくださり、ぜひ今後もいい交わりをしてもらいたい、そしてまたこちらへ来られたときは、友人として市庁舎を訪問してもらいたいと温かい言葉を掛けてくださった。そして最後に、彼の付き人からピンバッジを渡された。それはフランクリン市のバッチで、友好の証しであると説明を受けた。
面会時間は30分程度。終わったとき、急にお腹が鳴ったことを覚えている。すぐさま私たちは近くのピザ屋に向かった。
午後からはナッシュビル市庁舎へ。こちらはフランクリン市とはまったく違う雰囲気だった。何しろ建物がフランクリン市庁舎の倍以上はある。そしてセキュリティーが厳しく、カバンの中身までチェックされた。中に入ってさらに驚愕(きょうがく)。建物の構造自体がまったく異なっている。歴史的な重みを感じさせながらも、こぢんまりとした造りであったフランクリン市庁舎に対し、こちらはどちらかというと前衛的な近代性をモチーフにしている。掲げられた絵画や彫刻など、アーティスティックなのだろうが、私には何が描かれているのか分からない、そんな抽象度の高い作品ばかりであった。
通された部屋も大きく、正面壁には巨大モニターがあり、プロジェクターが備え付けられていた。お菓子やジュース類は一切なし。立ったまま数分待たされ、正面の入り口から大柄な男性が大股でこちらへ向かってきた。市長のカール・ディーン氏である。
彼はにこやかに近づいてくると、私たち一人一人と握手を交わした。その握力はものすごい。こちらの手が握りつぶされるのではないか、と思うほどであった。その後、フランクリン市で行ったのと同じ説明をし、動画を見せた。熱心に聞き入ってくれ、動画を見てくれた。
一通りの説明の後、カール氏はナッシュビル市の歴史やクライストチャーチから排出されたミュージシャンのことを語ってくれた。そして毎年春に行っている「桜フェスティバル」というイベントについて、熱心に話してくれた。このイベントは、ナッシュビルと日本の文化交流の場として数年前から開催されているもので、市庁舎前で剣道をしたり、和太鼓の演奏が行われたりする一大イベントらしい。「ヤス、これにあなたも参加して、私と一緒に桜通りを歩かないか?」とフランクに誘われたことが印象的だった。
面会時間は20分程度。市長との写真撮影を終え、部屋を立ち去ろうとしたとき、ナッシュビル姉妹都市委員会委員長のヘザー・カニングハム氏から呼び止められた。今後はぜひ学生たちの交流をしたいので、もし次回ナッシュビルへ来ることがあるなら、私に連絡してほしい、とのことだった。
緊張の二連続面会が終了した。フランクリン市との関わりは現在少し途絶えているが、ナッシュビル姉妹都市委員会とは今でも良い交わりを継続している。その後、2017年まで毎年「ナッシュビルツアー」を行ったが、毎回ヘザーさんにはお世話になり、またヘザーさんが京都へ来られたときは、私たちがおもてなしをすることも何回かあった。
ナッシュビルが私の第二の故郷になりつつあった。
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