驚きと興奮、そして感動に満ちたナッシュビルツアー2012もいよいよ終わりに近づいていた。フランクリンとナッシュビル両市長との面会を果たし、あとはお土産を買って帰国するだけとなった数日間は、今までと景色が異なって見えた。リラックスしたということだろう。
南部料理を楽しみ、ミュージックシティならではのお土産を買い、そしてついに最後の夜を迎えた。この日は、クライストチャーチクワイアの皆さんが「お別れ会」を開催してくれた。練習を少し早く切り上げて、皆で楽しくパーティーをすることになったのだった。
そこで忘れられないプレゼントを頂くことになった。それは、亡きモリース・カーター氏との思い出の詰まったスナップ写真集であった。クリス氏と共にその写真を見ながら、しばし感慨に浸ることができた。
翌日、私たちは20時間以上をかけて帰国することになった。皆、それぞれが楽しくも有意義な思い出をたくさん頂いた。そのことを話しながら空港の通路を歩いていた。しかし、一人の大学生が何やら深刻な顔をしている。
「どうしたの?」。思わず尋ねた。それくらい異様で、皆の華やいだ雰囲気からは程遠いものだったからである。すると彼はこう尋ねてきた。「ナッシュビルの皆さんが一番喜ぶことって何でしょうかね?」
詳しく聞くと、本当によくしてもらった10日間だったので、彼らが喜ぶお礼をしたいと思うが、自分にできることは何もない。でも何かさせてもらいたい、そんな気持ちが高まってきたのだという。
彼と私は同じホームステイ先であったため、ホストファミリーがどんなに手厚くしてくれたかを知っていた。例えば、毎晩どんなに遅くに帰ってきてもちゃんと起きていてくれて、ベッドには人数分の一口チョコが置いてあったり、朝になると「食べたいものは何か?」と必ず聞いてきてくれて、なんと日本の海苔を買ってきてくれたりしたのである。さらに彼は言った。
「青木先生がスターバックスのパンプキン・ラテがおいしかった、と言ったら、すぐに次の日には用意してくれたじゃないですか。ホットなクリスピークリームドーナツが食べたいと言うと、それもちゃんと買って、温めて出してくれましたよね」
ここまでだと、何だか私たちが食べて飲んでばかりいた食いしん坊のような誤解を招くだろうが、ホストファミリーのおもてなしはそれくらい心づくしであったことは確かだ。
私はその話を聞き、ある種軽い気持ちでこう言った。「君が洗礼を受けてクリスチャンになることが一番のプレゼントじゃないかな?」
彼との会話はそれで終わった。空港は予想以上に混んでいて、その後は顔を突き合わせて話し合う機会などなかったからである。私たちは事故なく、無事に帰国することができた。
事件はその翌週の日曜日に起こった。
いつものように礼拝の準備をしていると、その彼がこちらにやってきて、あいさつもそぞろにこう言った。「青木先生、僕、洗礼を受けたいんですけど」
私はあの時、自分が軽い気持ちで伝えたことを少し後悔した。やはり洗礼を受けるというのは、誰かのためではなく、自分がイエス・キリストを真心から受け入れる決心をしなければよくないからである。
しかし、彼はこう語り出した。「この前、青木先生に勧められたからではないんです。帰りの機内で、この10日間のことをいろいろ考えたんです。僕は、彼らみたいになりたいんだと思いました。それは音楽家としてではなく、人のために一生懸命に尽くすその姿です。もしあれが『クリスチャン』というものだとしたら、僕もそうなりたいです。心から人のために、周りの方々のためになる言葉や態度を示せるような、そんな信仰者になりたいんです」
彼ともう一人の友人が、その翌週に洗礼を受けることとなった。私としてはこの上ない喜びのひとときであった。
洗礼式の日、彼らはそれぞれが洗礼を受ける前に証しをした。その様子をビデオに録り、ナッシュビルへ送ることにした。この洗礼式の模様が、何とクライストチャーチの礼拝で流され、その様子を私たちはアーカイブで拝見することになった。
見ると、日本ツアーに参加した者たちは皆が涙を流し、礼拝堂に集う数千人の会衆は拍手喝采で日本人大学生の洗礼式の様子を見守っていた。
ここで一つのことを学んだ。この時、洗礼を受けた学生たちは、その年の初夏あたりまではまったくキリスト教には無関心な若者であった。そんな彼らをして、「イエス様に従っていきたい」と願うようにさせたものとは何か?それは神学的な教義でもなければ心地よいゴスペルの調べでもなかった。端的に言えば「寝る前に添えられたチョコレート」「朝食で用意された海苔」「朝食に間に合うよう運び込まれたアツアツのドーナツ」である。
それらにはすべてホストファミリーの「信仰」が込められている。彼らのクリスチャニティが形を取った結果である。日本からナッシュビルへ向かった学生たちは、彼らの「信仰」の発露に触れたのである。そして、クリスチャンである私が見落としがち(どうしても神学や教義に目が行ってしまう)な「まごころ」を、一つ一つ大切に自らに取り込んだのであった。
キリスト教界は、このような善意と真心を外部に向かってささげる生き方を常に選択すべきである。一見、信仰とは関係ないように思える数々の行為も、クリスチャンでない方々だからこそ、その本質にあるものに気付くことができるのだ。教会とは、そしてクリスチャンとは、そのような純度100パーセントの善意をお互いに与え合う場所、存在なのだ。
2012年のナッシュビルツアーは大成功のうちに幕を下ろすこととなった。
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