昨年のナッシュビルツアーに引き続き、2012年も学生たちを連れてツアーを敢行した。昨年のツアーは観光がメインであったが、今年はそこにもう一つミッションが加えられた。それはナッシュビル市、隣のフランクリン市と京都市を姉妹提携させられないか、というほぼ妄想に近い願いを抱いての渡米であったことである。
震災後のクライストチャーチの献身的な働きを、単なる「美談」に留めておくのではなく、これを公的な形にしようと考えた。その話をナッシュビル市、フランクリン市に打診すると、何と両市の姉妹都市委員会会長が面会を申し込んできたのであった。
だが本来の目的も忘れてはいない。大学生、しかも今回は軽音楽部の学生に特化して募集をかけた。やはり音楽都市(ミュージック・シティ)ナッシュビルへ行くのだから、ゴスペル、ジャズ、ブルース、ロックなどに興味を持つ学生が一番喜ぶだろうという観点からの決断だった。もちろんぜひ行ってみたいという人を拒むものではなかったが、結果的にそうなってしまった。
メンバーは、学業よりも音楽が好き、という4人の学生たち、そして昨年に引き続き「復興支援ソング」をレコーディングする目的を持つ20歳の女性を加えた5人である。そこに私が同行するということで、昨年よりは少し小さなグループとなった。
だが彼らの目的がはっきりしていたため、旅そのものは何にも代えがたい貴重な体験の数々となった。今から数回に分けて、音楽都市ナッシュビルとそこで2012年に私たちが体験した出来事をご紹介したいと思う。
まず、いつものごとく20時間以上のフライトを経て、ナッシュビル国際空港に到着。ちょうどお昼時であったため、近くのレストランでほぼ1日ぶりにまともな食事にありつくことができた。
その後、早速学生たちはナッシュビル市内の楽器店へ。日本で「楽器店」というと、どんなに大きくても2カ所か3カ所くらいの場所に楽器が種類ごとに置かれている様子を想像するだろう。しかしナッシュビルは違う。何と楽器ごとにお店が分かれているのである。しかも陳列されている品数の半端ないこと!
スネアドラムだけでも優に300種類以上が陳列されている。例えば、1階は電子ドラム、2階は生ドラムのバス、次のセクションにシンバル、というように・・・。
このようにして、各店舗(どれも独立している)が楽器の種類によって分けられているため、単に「楽器店に行きたい」だけでは話が通じないのである。
当初、30分程度立ち寄るだけの予定であったが、軽音楽部でドラムをやっている学生がなかなかその場を離れず、しかも試打を始めてしまったため、結局私たちは1時間半もその楽器店に居座ることになってしまった。
その後、私たちはホームステイ先の各家庭に送ってもらった。私と男子学生2人は、教会でもとびっきりの資産家であるトミー&ベッキーさんの家庭にご厄介になることになった。入ってびっくり!1周50メートル以上はあるスクエア状の廊下が備え付けられており、その中央には本物の暖炉があったのである。
出迎えてくれたベッキーさんは、歓迎の意味でスイカを振る舞ってくれた。その大きさといったら!日本では見たことのない巨大なもので、しかも中身がしっかりと詰まっていたため、私たちは2回もお代わりをしてしまったのである。
たっぷりとフルーツを頂いた後、私たちはそれぞれの部屋へ案内された。きちんとベッドメイキングされたその場所に、一口サイズのチョコレート2個が置いてあった。そのそばにカードも添えられていて、「ナッシュビルへようこそ!」と手書きされてあった。
おそらくホストファミリーのトミーさん、ベッキーさんが置いてくださったのだろう。実は、これがのちに大きな働きを為すのだが、それはまたの機会にお話ししたい。
次の日、学生たちにも確かめると、同じようにチョコとカードが添えられていたそうである。心憎い演出に迎えられて、私たちのナッシュビルツアー2012はスタートした。昨年とは違う新たな発見があることを期待しつつ、私は長時間フライトで疲れた体をベッドに横たえたのであった。
このようなナッシュビルへの旅を、私は2011年から17年まで毎年行ってきた。今年(18年)は諸般の事情で行えなかったが、おそらく19年から再開し、引き続きこのような企画を継続していくだろう。
その中にあって、この2012年の旅は、その後のナッシュビルツアーの「型」を形成したという意味で、とても意義深いものとなったことは間違いない。ここで私たちが体験し、学生たちが得た経験が、その後のツアーの方向性を決定づけたと言ってもいいだろう。
そんな恵みに満ちたエポックメイキング的なナッシュビルツアー2012は、意外にも音楽とは関係ない「ホームレスへのボランティア活動」から始まることとなった。
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