そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10:17)
私は地方教会の牧師として20年間、牧会に専念しました。伝道集会の案内チラシを地域全戸に配布し、新聞の折り込みも利用しました。また、戸別訪問によるキリスト教案内のパンフレット、トラクト配布を試みました。しかし、反応はほとんどなく、新規に集会に来てくださる方を見つけるのは至難の業でした。いつも空席が目立っていました。
そのような状況の中で、座り切れないほどの方々が教会に来てくださることがありました。それは冠婚葬祭の時です。特に、葬儀の時は駐車場にまで人が溢れ、延長スピーカーを用意したこともありました。
鹿児島にもチャペル結婚式ブームの波が押し寄せ、ホテルにチャペルが建てられるようになり、牧師としての出番が増え、ついにはブライダル牧師として独立して専念することになりました。
ブライダル牧師として立つとき、心に決めたことは、司式するカップルには必ず結婚講座を受けていただいて、聖書の教えに触れる機会を持っていただくということでした。私の生き方に対して、商業主義と結託した堕落した牧師という中傷もありました。
しかし、司式したカップルの中からキリストを信じ、洗礼を受けた方々もありました。また、結婚式に参列したことがきっかけで聖書に関心を持ち、学びを始めた方々もいらっしゃいます。この20年間で6千組以上のカップルの司式をしています。参列者が平均して50人とみると、単純計算ですが30万人以上の人々に語ったことになります。
もっと人々の心にアプローチする方法はないのだろうかと思案していたとき、キリスト教葬儀に関わる機会が与えられました。前夜式の時にとっても心を開いてお話を聞いていただく様子を見たときに、これからの伝道はキリスト教葬儀だという決意をするに至りました。そして「花と音楽に包まれたキリスト教葬儀」という看板を掲げて起業するに至りました。
思い付きで起業したものの、どのように案内していったらいいのか行き詰まってしまいました。そのような時に、県主宰のビジネスセミナーが開催されました。質疑応答の機会に、私は自分の悩みを打ち明けました。そうするとセミナー講師が、韓国の棺体験のことを教えてくださいました。
韓国では模擬葬儀を行い、体験者は棺に入り、参列者は棺に砂までかけるそうです。真っ暗な棺の中で砂の音を聞いていると、本当に死を経験したような気持ちになるそうです。ほとんどの体験者は涙をボロボロこぼしながら棺から出てくるそうです。「何かこのようなイベントを計画したら、キリスト教葬儀をアピールできるのではないですか」と提案してくださいました。
私たちは、自分たちなりの棺体験を考えてみました。棺は火葬場の炉のサイズを考慮しながら、できるだけ余裕のある大きさにして木工所に発注しました。地元産の木材を使って、木の香りも楽しめるようにしました。思ったよりも経費がかかり、実際の葬儀には用いないで棺体験専用にしています。
棺体験の時は、死の問題を考えることで、残された時間をどのように有意義に過ごせるかというメッセージを語ります。そして、体験者は好きな賛美歌を1曲リクエストして、その歌を歌い終わるまで蓋を閉めます。砂の代わりに棺カバーをかけます。そして、棺から出てきたら何を感じたかを話してもらいます。
3分という短い時間ですが、ほとんどの体験者が、人生の転機になるような経験をしたと語られます。ある経営者は、週末には飲み屋街をうろつく生き方だったのに、子どもたちのために絵本の読み聞かせを行うボランティア活動に参加するようになりました。
地元の新聞も取り上げてくれて、記者自身が体験者となり、詳しい報告を記事の中で書いてくれて大きな反響を呼びました。また、テレビ局が取り上げてくれたときは、私たちの活動の様子を取材し、さらにテレビ局のレポーターが棺に入り、棺の中から実況しました。夕方のニュース番組の中でも取り上げられました。
ある病院からも棺体験の依頼があり、病院長や婦長さんまで体験されました。「自分たちは仕事柄、看取りをしなければならないが、どのように患者さんに接したらいいのか、とても参考になりました。また、自分たちが見送ってきた多くの方々を思い出して涙が止まらなくなりました」と語っておられました。
最近、「看取り」のことも大切な問題として取り上げられています。あるドクターは、「自分たちは患者さんのために適切な医療処置を行い、薬を処方し、必要があればカウンセリングを行うこともできます。しかし、魂の問題に関しては、どうすることもできません。医療従事者と宗教者が協力していく必要があります」と語っていました。
奇抜なやり方かもしれませんが、教会で棺体験を行うなら、新しい伝道集会になるような気がします。
私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。(1コリント9:23)
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