正しい者は七たび倒れても、また起き上がるからだ。悪者はつまずいて滅びる。(箴言24:16)
テレビの大河ドラマで「西郷どん」が放映され、人気を博していますが、「西郷さん」は鹿児島ではとても身近な存在です。私が子どもの頃、祖母は寝る前にいつも西郷さんのエピソードを語ってくれていた記憶があります。
ドラマでは西郷どんとなっていますが、「どん」というのは武家に対する尊称です。「西郷家」を「西郷どん」といいますので、正確には「西郷どんの吉之助さー」というのが正しい呼び方だと思います。
私はチャペル結婚式に関わっていますが、西郷さんの直系の花嫁さんの司式をしたことがあります。西郷さんは奄美大島に流罪になったとき、愛加那さんと出会い、結婚します。2年半くらいの結婚生活でしたが、子どもが2人与えられます。その子孫の結婚式を司式しました。愛加那さんは西郷さんと別れた後、再婚しますが、子どもが与えられています。
結婚式の時にどうしても聖歌隊のメンバーが足りなくて、普段はピアノ演奏をしている方に臨時の聖歌隊をお願いしたことがあります。ところが驚いたことに、その方は愛加那さんの子孫だというのです。子孫同士の巡り合わせに不思議な導きを感じました。
西郷さんの曾孫さんが、「ご先祖は政界で活躍するよりも牢獄のほうが長いように思います。七転び八起きの人生でした」と話しておられました。
イエスの弟子、トマスは南インドで宣教したといわれますが、彼の説いた聖書の教えの一部が「七転び八起き」として伝わったといわれます。大乗仏教は元来、キリスト教の影響を受けているといわれますが、トマスの働きが大きいと思われます。
初めてインドから中国に禅を伝えたのはインド人の僧侶、達磨大師といわれます。ダルマは日本でも縁起がいいものとして人気がありますが、達磨大師の服装はインドのものというよりは中東のものだといわれます。だから、もともとのモデルはトマスではないかという説があります。禅宗の臨済宗や曹洞宗の教えの中には、聖書の教えに通じるものがあるといわれます。
明治維新の偉業を成し遂げた後、政争に敗れた西郷隆盛は聖書を携えて家庭集会をしていたといわれています。自分の先祖の家で西郷さんが聖書の話をしていたという子孫のことが地元の新聞で紹介されたことがあります。「七転八起」の話が出たら、箴言を示すことで、聖書の話をするきっかけになると思います。あらゆる機会を用いて聖書の話をしていくことは大切だと思います。
弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。(1コリント9:22)
人生という道は決して平たんではなく、つまずくようなことが多くあります。自信を持ってチャレンジしたのに受験がうまくいかないことがあります。また、万全の態勢で臨んだつもりだったのに事業の立ち上げに失敗してしまうこともあります。家庭や職場での人間関係がうまくいかず悩んでいる方々もいます。経済問題で行き詰まってしまうこともあります。
うまくいかないときは、マイナス思考のささやきが耳に届くことがあります。「頑張っても駄目だよ、諦めたほうがいいよ、八方塞がりだよ」など声なき声が聞こえるかもしれませんが、これは神に敵対する者のささやきです。決してマイナス思考に耳を傾けてはいけません。目を上げて神様を見上げるなら、必ず希望が示され、立ち上がる力が与えられます。
聖書の中に出てくる「七」とは回数ではなく、無限の意味を表しています。何度でも立ち上がれるということです。旧約聖書にある正しい者とは、神を信じる者であり、悪者とは神を信じない者という意味です。神を信じる人は7回倒れても起き上がり、8回目にチャレンジできます。
フェイスブックで紹介されていた記事ですが、70歳を過ぎても若い人と変わらない柔軟性を持ち、ダンサーをしている米国人の男性がいます。この人は「年をとったからといって限界はありません。チャレンジすればどんなことでも可能性があります」と語っています。若くても年老いてもチャレンジし続けることのできる社会はとても素晴らしいです。
私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。(2コリント4:8、9)
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