「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。(マタイ22:32)
私はキリスト教冠婚葬祭を仕事にしていますので、葬儀の司式をすることもありますし、裏方さんとしてお手伝いすることもあります。しかし、先日は特別な葬儀に携わることになりました。私が洗礼を授け、22年間集会を共にしていた姉妹の葬儀の司式をしました。自分では冷静に対応していたつもりですが、やはり感情の高ぶりを抑えられない場面もありました。クリスチャンの交わりを主にある家族と表現しますが、身内で感じるような喪失感がありました。
自分の語るメッセージでは、「死はすべての終わりではありません。必ず向こう岸ではキリストが出迎えてくださり、やがて天のみ国では私たちも再会できますので、悲しみません」と語りながら、心は悲しみと空しさでいっぱいでした。
牧師としてご遺族を慰めながら、自分自身も慰めを必要としていました。その時に、主なる神が示してくださったのがマタイ福音書22章の聖書の言葉です。「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神です」という宣言が心に響きました。
神は、アブラハムと交流を持ち、現在もつながりを持っておられるのです。神にとって、アブラハム、イサク、ヤコブは数千年前、数百年前に亡くなった人ではないのです。今も生きていてつながりを持っておられ、必要があればいつでも復活させられる存在であるということが分かります。
この聖句を見つめているうちに気付いたことがあります。「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、〇〇の神である」と語っておられるように思いました。この〇〇に私の名前を入れても許されるのではないかと思います。
主なる神は、どんな状況下でも私たちに関心を持っておられ、大切な存在として取り扱い、支え、導いてくださいます。物事がうまくいかないときは、神がどこか遠くへ行ってしまわれたかのように感じることもありますが、どんな時にもそばにいてくださり、事態の中心にいてすべてをコントロールしてくださっています。この神の愛に想いを向けるときに、気持ちを落ち着かせることができます。
良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家にいくほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者が、それを心に留めるようになるからだ。(伝道者の書7:1、2)
私は自分の教会の姉妹の葬儀から、日本の一般社会の冠婚葬祭伝道に想いを広げました。昔の日本の社会は、冠婚葬祭の時は地域で助け合う社会でした。もし、地域の誰かが亡くなると近隣の人が総出で葬儀を行っていました。自分たちで棺桶を作り、墓を掘り、炊き出しもしていました。たとえ村八分になっていても、葬儀の時だけは助け合うというのが鉄則でした。
ところが、今日の日本の社会では、葬儀をしたくてもできない葬儀難民がいるといわれます。社会共同で行っていたことをいつの間にか業者に任せるようになってしまい、葬儀の費用が大変な負担となり、中には新たなローンを組まなければならないこともあります。経済的な負担に耐えられなくて、葬儀を行わずに火葬場に直行する直葬が盛んであるというのはとても悲しい話です。
老人世帯にとって、今の時代は疑心暗鬼の社会です。親切な電話がかかってきたら、詐欺だと思わなければいけない状態です。また、家を訪問してくる人々のほとんどが押し売りだったり、リフォーム工事の詐欺だったりして、うかつに玄関を開けることもできないといわれます。
単身で生活している老人が一番気にしていることは、自分が亡くなったときはどうなるかという心配だといわれます。自宅で倒れても、誰にも気付いてもらえなくてそのままになってしまうのではないかということです。
私は失われた古き良き共同社会を取り戻すのは、宗教家の役割ではないかと思います。ある教会が大きい納骨堂をつくり、「希望する方はどなたでも利用できます。信者さんはお金はいりません」という方針を打ち出したところ、礼拝出席するお年寄りが急激に増えたそうです。教会に行けば、冠婚葬祭は良心的に対処してもらえる、教会の人々は助けてくれるというメッセージを伝えることは大切だと思います。
私は仏教の和尚さんたちにも協力してもらい、助けが必要な人はお寺でも良心的な葬儀をしてくれますよというムーブメントを始めたいと願っています。地域社会を変革していくために、教会の牧師や信徒がリーダーシップを発揮するのはとても大切なことではないかと思います。
インドのコルカタで奉仕したマザー・テレサは、道端で死のうとしている人々を「死を待つ人の家」に連れて行き、精いっぱい介護し、亡くなるとヒンズー教徒にはヒンズーの祈りをささげ、イスラム教徒のためにはコーランを読んであげたそうです。また、介護を受けている人々はキリスト教の祈りを覚えようとしたといわれます。
神との親密な関係性が与えられている私たちに、冠婚葬祭を通して大きな使命が委ねられています。
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