【心を神に向ける戦い】
(1)献金をしてみる
「キリストゆえの苦しみ」とは、心を神に向けようとすることで生じる苦しみであり、「肉の思い」との戦いを意味する。それは激しい戦いではあるが、この戦いを通じて神を信頼できるようになり、人を愛せるようになる。この戦いの先には、魂が切望していた「安息」が待っている。とはいえ、心を神に向ける戦いは、具体的に何から始めればよいのだろうか。「肉の思い」との戦いは、何から始めてみればよいのだろう。敵を愛せよと言われても、それだと玉砕するしかない。絶対に無理である。そこでイエスは、次のように言われた。
「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません」(マタイ6:20)
ここでいう「宝」とは、この世界で安心をもたらしてくれるものであり、それは人によって異なるが、共通した「宝」は「お金」である。この地上で安心して生きていくには、兎にも角にも「お金」が必要となるため、誰もが「お金」を「宝」とし、心を「お金」に向けてしまう。だからイエスは続けて、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ6:21)と言われた。
ということは、「お金」を神にささげれば、心も神に向くようになる。それでイエスは、「自分の宝は、天にたくわえなさい」と言われたのである。つまり、心を神に向けるための実質的な戦いは、「肉の思い」が手にさせた「宝」をささげることから始まる。その「宝」は「お金」であり、「献金」が戦いの第一歩となる。そうしたことから、神は人の心を神に向けさせるために、昔から収入の十分の一は神にささげなさいと言ってこられた。
「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ」(マラキ3:10)
私たちは、どうすれば心を神に向けられるのかと考える。別の言い方をするなら、神のもとに、「どのようにして、私たちは帰ろうか」と言う。それに対する神の答えが、収入の十分の一は神のものだから、それを神にささげてみなさいであった。
「・・・あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか』と言う。人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである」(マラキ3:7、8)
そうなると、人は言う。そんなことをしたら生活ができなくなると。そう言って、自分が稼いだ「お金」にしがみつき「献金」を拒む。あくまでも「お金」によって安心を得ようとする。これが「肉の思い」との戦いであり、そこに「苦しみ」が生じる。そこで神はこう言われた。
「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。──万軍の【主】は仰せられる──わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ」(マラキ3:10)
神はここで、収入の十分の一を神にささげるなら、それ以上の祝福でもって支えるから心配しなくてよいと言われた。それが本当かどうか、わたしを試してみよとまで言われた。神を試すことは御法度であるにもかかわらず、これだけは試してもよいと言われるのである。神がそこまで言われるのは、何としても「お金」に向いた人の心を、少しでも神に向けさせたいからにほかならない。それでイエスも、「献金」しても大丈夫なのかと不安を抱く人々に、すなわち神の国とその義とをまず第一に求めても本当に大丈夫なのかと不安を抱く人たちに、こう言われた。
「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:31~33)
ここでイエスが言われたことは、必ず神が助けるから何も心配しないで心を神に向けなさいということである。これは、「自分の宝は、天にたくわえなさい」(マタイ6:20)の続きで語られた言葉であり、「献金」しても大丈夫だからと励まされた。こうして神は、何としても心を神に向ける戦いに参戦させようとされる。だが、いざ参戦しようとすると、「肉の思い」がさまざまな理由を付け、「献金」することに激しく抵抗してくるだろう。
このように、収入の十分の一を神にささげようとすれば(什一献金)、心を神に向けることがいかに困難であるかが容易に分かる。そうであっても、神は「什一献金」を試してみよと言われる。「キリストゆえの苦しみ」に参戦せよと言われる。なぜなら、その先には祝福が待っているからだ。実際、試してみると、神が言われる通りに祝福を得たという証しは数知れない。
例えば、「什一献金」をするようになったことで心が神に向き始め、平安を得たという証しは後を絶たない。あるいは残りの90パーセントに対し無駄遣いをしなくなり、かえって生活が良くなったという証しも多い。まだ他にもさまざまな証しがあるが、彼らは口を揃えて言う。もっと早く「什一献金」をしていればよかったと。ただし、この「什一献金」に関しては注意が要る。
(2)「什一献金」の注意
心を神に向けるという実質的な戦いは「什一献金」に象徴されるが、それができたからといって、実は心が神に向いているとは限らない。人から良く思われたいという「肉の思い」が強ければ、逆に「什一献金」を自己アピールに利用してしまうからだ。「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ18:12)。これでは、ますます心は神に向かなくなる。そこでイエスは、そのような人たちに対しては次のように注意された。
「だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません」(ルカ11:42)
そうであっても、「什一献金」というのは心を神に向けようとすることの戦いになるので、「ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません」と言われた。
つまり、「什一献金」に関してどのような注意が要るのかというと、「什一献金」は心を神に向けるための戦いであって、その人が立派であるかどうかを判断する基準ではないということだ。神がその人を愛するための基準でもなければ、良いクリスチャンかどうかを知る基準でもない。だから、できないからといって裁いてはならないのである。そもそも神は人の「行い」を見て、その人は良いか悪いかといった判断はしない。神の言葉を守らなくても、神はその人を裁いたりなどなさらない。
「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」(ヨハネ12:47)
神は「什一献金」を試すように言われるが、こうした神の律法を行うことによっては誰一人、神の前に義と認められることはないということだ。しかし、神の律法は自らの罪を知る物差しにはなり、罪の意識を生じさせてくれる。
「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ3:20)
罪の意識が生じるのは「什一献金」を勧める律法に限ったことではなく、神のすべての律法がそうである。実は、そこにこそ律法の目的がある。なぜなら、罪の意識が本気で生じれば、その人は罪を赦す神の愛を受け取ろうとするからだ。その時、その人の心はキリストに向いている。そこにこそ、「什一献金」を含む神の律法の目的がある。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:24)。
このように、神の律法の真の目的は、心を神に向けさせない「肉の思い」(罪)をあぶり出し、神に助けが乞えるようにすることにある。従って、律法の行いが達成できるかどうかは問題ではない。律法によって罪を本気で認識し、神に助けを乞い、罪を赦す神の愛を受け取ることができるかが問題なのである。そうであるから、「什一献金」ができないからといって自分を責める必要などない。ただ、できない自分を認めて神に助けを乞えばよい。
しかし、ともすると「什一献金」の話は2つに意見が分かれてしまう。これは旧約時代の律法であって、恵みの時代に入った今は必要がないと言う人たちと、いや今も有効な神の律法であって「什一献金」はクリスチャンがすべき義務であり、それができなければダメだと言う人たちとに分かれる。このどちらの人たちも、神が何ゆえに「什一献金」を命じられたのか、その意図をまったく分かっていない。私も若い頃はそうであったが、そう考えることは神の思いを勝手に裁いている。では、心を神に向けるにはどうしたらよいか、その話を続けよう。
(3)「宝」は人によって異なる
神は、「宝」を神にささげさせることで人の罪をあぶり出し、心を神に向けさせようとされる。その場合、「お金」は確かに人の「宝」で間違いないが、それが最も大切な「宝」かどうかは人によって異なる。そうであれば、心を神に向けさせる目的で献金が功を奏すのは、「お金」が最も大切な「宝」の人たちだけとなる。そこで神は、それぞれにとっての最も大切な「宝」を神にささげさせようとされる。そのことを通して罪に気付かせ、神のあわれみを乞うようにさせるのである。それが心を神に向けるということであり、無条件で愛する神の愛を受け取ることにつながるので、そのようにされる。このことを知る出来事がある。
ある時、イエスのもとに青年が来て尋ねた。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか」(マタイ19:16)。そこでイエスは、ならば戒めを守るようにと言われた。青年は、「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか」(マタイ19:20)と言ったので、イエスはこう言われた。
「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」(マタイ19:21)
イエスは、「あなたが完全になりたいなら」、全財産を貧しい人たちに与えなさいと言われた。「完全になりたいなら」とは、「心が完全に神に向くようになりたいなら」ということであり、そうなりたければ全財産を手放すようにと言われたのである。なぜなら、この青年は多くの財産を持っていて、それが彼の「最大の宝」となり、心を神に向けさせない城壁になっていたからだ。それで、全財産を手放すようにと言われた。しかし、この青年には、それができなかった。そのことで、ようやく自分の罪を知ることができ、悲しみを覚えたのである。
「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った」(マタイ19:22)
その後、この青年がどうしたかは記述がないので分からないが、大切なことは罪に気付いたあとの対応である。それは自分を責めるのではなく、神に助けを乞うことにほかならない。
さてイエスは、この出来事を通して、「金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです」(マタイ19:23)と弟子たちに言われた。お金が、心を神に向けさせなくさせていることを教えられたのである。だが、神ならそれでも人を救えることを続けて話された。それを聞いていた弟子のペテロは、大変喜んでこう言った。
「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか」(マタイ19:27)
ペテロには初めから財産もなく、財産が彼の「最大の宝」になどなり得なかったので、「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました」と、言ってのけられたのである。ならば、ペテロにとっての「最大の宝」は何だったのだろう。それは、人から良く思われる「評判」であった。ゆえにイエスは、ペテロに対してはこう言われていた。
「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マタイ16:23)
しかし、ペテロは自分の「評判」を捨てることができなかった。それで、いつも人からどう思われるかに心が奪われていた。「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」とは、そういうことを言っている。そのせいで、イエスが捕らえられ、周りからお前もイエスと一緒にいたと言われたとき、誓って、「そんな人は知らない」(マタイ26:74)と言ってしまった。そのことが3度も続き、ようやくペテロは自分の罪を本気で認めることができ、彼の魂は激しく神のあわれみを乞うたのである。すると捕らえられていたイエスは、あわれみを乞うペテロの方を振り向き、彼の目を見つめられた。
「主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う』と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:61、62)
ペテロを見つめられたイエスの目は、「それでもお前を愛している」という目であった。それでペテロはイエスが言われた、「あなたは、三度わたしを知らないと言う」という言葉を思い出し、その罪が赦されたことの喜びから感極まり激しく泣いたのである。
このように、神はさまざまな律法を命じることで心を神に向けさせない「肉の思い」(宝)をあぶり出し、それを取り除こうとされる。それは「情欲」であったり、「名誉欲」であったり、「支配欲」であったりと人によってさまざまだ。そうしたものに心が支配されないよう助け、心が神に向くようにされる。そしてその仕上げが、その人にとっての「最大の宝」をささげさせることとなる。では、この話をアブラハムの例で見てみよう。
(4)アブラハムの「宝」
アブラハムは、最初に十分の一を神にささげた人であった。
「彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた」(創世記14:19、20)
彼は十分の一を神にささげることで、心を神に向けようとする戦いに参戦した。それは、神の約束を信じる戦いであった。そして100歳を超える老人となったとき、ついに神の約束であった男の子、イサクが与えられる。そうしたことから、アブラハムにとってイサクは「最大の宝」となった。イサクの成長に、喜びと安心を覚えるようになった。
そこで神はアブラハムに、「イサクをわたしにささげなさい」(創世記22:2)と命じられたのである。それがアブラハムにどれほどの「苦しみ」をもたらしたかは、想像に難くない。アブラハムはイサクに対する「肉の思い」と激しく葛藤し、「苦しみ」もだえた。そこで彼は必死になって神に祈り、ついに神を絶対的に信頼できるようになった。それは、神がイサクを死者の中からでも生き返らせることもおできになると信じることができた、ということだ。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です」(ヘブル11:19、新共同訳)
アブラハムは、こうして「安息」を得た。それでアブラハムは神が命じられたことを実行すべく刀を取って、イサクをほふろうとした。「アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした」(創世記22:10)。その時、御使いが彼を止めた。そして、アブラハムはこの出来事により神から友と呼ばれたのである。
「神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。・・・『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです」(ヤコブ2:21~23、新共同訳)
「神の友と呼ばれた」というのは、実質的に友としての関係が築かれたということを意味する。神を絶対的に信頼できるようになったということである。神は誰に対しても「友」として接してくださるが、それを実体あるものとするには、まさしくその人にとっての「最大の宝」を神にささげる必要があるということだ。なぜなら、それにより、人はどうにもならない罪を本気で認識できるようになり、心が神に向くようになるからだ。こうして、「安息」にたどり着くことができる。
(5)心を神に向ける
以上の話から、心を神に向けることの実際が分かっただろうか。それは、「什一献金」ができるようになることでも、「情欲」「名誉欲」「支配欲」などといった「肉の思い」を捨てられるようになることでもない。神の律法を行えるようになることでもない。それは、自分の罪深さに気付き、心から神にあわれみを乞えるようになり、それでも愛すると言われる十字架の「全き愛」の言葉を受け取れることにほかならない。
そこで神は、人が絶対に罪を認められるように、その人にとっての「最大の宝」をささげさせようとされる。つまり、「聖書」を通して、私たちを罪の下に閉じ込めてしまうのである。それは「安息」の約束が、キリストの信実(十字架の「全き愛」)によって、あわれみを乞うすべての人々に与えられるためである。
「しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストの信実によって、あわれみを乞う人々に与えられるためです」(ガラテヤ3:22、私訳) 参照:福音の回復(45)
考えてみてほしい。クリスチャンは自分の罪深さを知れば知るほど、何をするようになるかを。無論、必死になって神のあわれみを乞い、無条件で罪が赦される「全き愛」を受け取ろうとする。受け取れば「平安な義の実」を得、神と人を愛するようになる。約束の「安息」を手にできる。これが心を神に向けるということである。
つまり、神の律法に仕えたいという思いはあっても、罪の律法にも仕えてしまうという、どうにもならないみじめな自分を知れば、もう神にあわれみを乞うしかないのである。パウロはそうした自分を知り、次のように告白した。
「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです」(ローマ7:24、25)
「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」とは、まさしく「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)という、魂の叫びである。心は神の律法に仕えようとするが、肉ではどうしても罪の律法に仕えてしまうという自らの「弱さ」を、パウロはこうして受け入れたのである。
人は誰もが健康を願う。長生きを願う。しかし、現実にはどうにもならない病気になることもある。たとえ病気にならなくても、老いていく体に逆らうことはできない。心は健康や長生きを願うのに、肉は病気になり老いていくしかない。これを人の「弱さ」という。同様に、心は神の律法に仕えようとするが、肉がどうしても罪の律法に仕えてしまうのも、同じ人の「弱さ」である。こうした「弱さ」は、神との結びつきを失う「死」が悪魔の仕業で入り込んだことに起因し、人の力では為す術がない。だからこそ、この「弱さ」に神の恵みが働く。
「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)
すなわち、どうにもならない自分の「弱さ」を受け入れることができるとき、その人の心は神を向き、神の恵みにあずかれるのである。これこそが、心を神に向けるということにほかならない。ゆえに、神は神の律法で人を懲らしめる。人に罪を認めさせ、どうにもならない「弱さ」に気付けるようにされる。
(6)神の懲らしめ
神の恵みは、どうにもならない人の「弱さ」にこそ働く。そこで神は、「什一献金」に始まり、「情欲」「名誉欲」「支配欲」といったさまざまな「欲」を捨てなさいと命じ、そして、いつでも福音を語るように言われる。さらには、「敵を愛せよ」と命じられる。そうすれば人にとっての「最大の宝」もあぶり出され、否が応でも人は自分の罪深さに気付き、自分の「弱さ」を認められるようになるからだ。
例えば、「最大の宝」が「お金」の人は、「什一献金」の命令を通して罪があぶり出される。例えば、「情欲」「名誉欲」「支配欲」といった欲が「最大の宝」であれば、それを捨てろという命令を通して罪があぶり出される。例えば、福音を語れという命令を実行しようとすれば周りから嫌われ迫害に遭うので、自分がクリスチャンであることすら隠すようになる。そのことで自分の罪深さを痛感し、どうにもならない自分の「弱さ」と出会う。ペテロがイエスを知らないと言って、どうにもならない自分の「弱さ」と出会ったように。
仮にここまでのことはできたとしても、神は「敵を愛せよ」と命じられる。この命令の前では、皆が玉砕するしかない。なぜなら、「怒り」や「嫉妬」を覚えない人などいないからだ。すなわち、神の律法の前では、自らを義人とすることのできる者など誰一人いないということだ。しかし、本当にそうした自分の「弱さ」に気付けば、罪が赦される神の愛を受け取る方向に向かうことができる。
つまり、神はこれでもか、これでもかと難題をぶつけることにより、神の命令に従えない罪深さをあぶり出し、「弱さ」に出会わせようとされるのである。そうすれば、人は必死になって神のあわれみを乞い、「全き愛」を受け取ることができるようになるから、神はそうされる。それは神の懲らしめのように見えるが、それが人に対する神の愛であり、その先には「平安な義の実」が待っている。
「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます」(ヘブル12:11)
聖書を見ると、誰もがこうした神の導きにより、神にあわれみを乞えるようになった。例えば、神の導きにより創世記のヤコブは自分の「弱さ」を知り、必死になって神のあわれみを乞うことができた(創世記32:24~32)。あのヨブも神とのやりとりで自分の罪を知り、ようやく「弱さ」を受け入れ、灰をかぶって必死になって神のあわれみを乞うことができた(ヨブ記42:1~6)。アブラハムもイサクをささげよと言われたことで「弱さ」を痛感し、必死になって神のあわれみを乞うことができ、イサクがよみがえると信じることができた。パウロはキリストの導きにより、自らを「罪人のかしらです」(Ⅰテモテ1:15)と言うまでに罪を自覚し、自らの「弱さ」を知るようになり、神の恵みにあずかることができた。これこそが、心を神に向けるということである。
すなわち、神の言われることができないからといって、何も心配する必要はないということだ。むしろできないことで、自分の罪深さや弱さに気付くことの方が大事なのである。できることよりも、罪を自覚し、それを神に洗い流してもらうことが重要となる。洗い流してもらわなければ、逆に神とは何の関係もなくなる。ゆえに、イエスはこう言われた。
「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(ヨハネ13:8)
そうであるから、罪などないと言うなら、私たちは神を偽り者とし、神の御言葉(神の律法)が私たちのうちにまったく働いていないということになる。「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません」(Ⅰヨハネ1:10)。
このように、心を神に向けるとは、自らの罪に気付き、その罪を神に洗い流してもらうことを指す。それは、こんな罪人であっても愛されているという自分を受容することを意味する。そのために、神の律法は私たちを責め続け、「最大の宝」を差し出せと迫る。神がアブラハムに、イサクをささげよと言ったように。そうやって罪をあぶり出す。これを、神の懲らしめという。しかし人は、神の律法の目的を勘違いし、それが行えるかどうかが重要と考える。だから「行い」でもって人の価値を判断する。これを律法主義というが、これはイエスやパウロが戦った誤った考え方である。
(7)神が助けてくださる
見てきたように、神は聖書を通してすべての人を罪の下に閉じ込めた。それは罪(肉の思い)を認識させることで、どうにもならない「弱さ」を自覚させ、神にあわれみを乞えるようにするためだ。それでも愛するという神の「全き愛」を受け取ることができるようにするためだ。それが心を神に向けるということであり、そこに神の「安息」が待っている。まさに罪を自覚させてくれる神の律法は、私たちをキリストへと導いてくれる養育係なのである。「こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました」(ガラテヤ3:24)
無論、神は律法でもって人に罪を自覚させ、キリストに導かれるだけではない。その間、人が味わう苦しみを共に背負い、共に罪と戦い、私たちを助けてくださる。そうやって、「安息」へと導いてくださる。それゆえ、聖書は次のように私たちを励ます。
「こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか」(ヘブル4:1)
実際、神は私たちを助けるために助け主を与えてくださった。「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」(ヨハネ14:16)。その方は聖霊なる神であり、いつも私たちと共におられる。「その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)。だから自分の罪に気付いたなら、それを神に告白すれば神が助けてくださる。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)
神の前に罪を言い表すなら、神は罪を赦し悪からきよめてくださるのである。罪が赦されたことは心に平安が訪れることで確認でき、悪からきよめられたことは、心に神への感謝が溢れるようになることで確認できる。こうした経験を積み上げていくことで、すなわち多くの罪が赦されることで多くの感謝が溢れ出し、神を多く愛せるようになる。
「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(ルカ7:47)
神を多く愛せるようになるということは、神との強い結びつきができるということであり、神を絶対的に信頼できるようになることを意味する。そうなれば、人から愛される必要はなくなるので、もう見返りを求めないで人を愛せるようになる。こうして魂は、神と人を愛せる「安息」にたどり着く。
従って、本当に自分の罪が赦される経験をした者は、人の罪を見ても決して裁かない。逆に、その人のためにとりなしの祈りをし、心から愛するようになる。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)。だから、人の罪や過ちを見て裁く人は、いまだ自分の罪が赦されたという経験をしていない。十字架の「全き愛」を受け取ってはいない。というより、自分の「弱さ」に気付いていないのである。
このように、神は助けてくださる。一緒になって罪と戦ってくださる。そして、神を絶対的に信頼できる者に育て、「安息」へと導かれる。この間の過程を、「キリストゆえの苦しみ」という。その苦しみの中で大事なことは、神が助けてくださるのだから、神に助けを乞うことである。それこそが心を神に向けるということであり、神の「全き愛」を受け取り、義とされることを意味する。ゆえにイエスは、次の譬えを話された。
「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました」(ルカ18:13、14)
今回のコラムは、「苦しみをも賜った?」であったが、キリストを知る信仰に伴い、私たちは「キリストゆえの苦しみ」を賜ったのである。神は「神のために頑張れ」とは言われないので、自らを追い込み苦しめる必要はないが、キリストを知ったことで魂はキリストを慕い求めるから、そのことを邪魔する敵との戦いは背負わなければならない。それが、「キリストゆえの苦しみ」である。ただし、この苦しみの先には「安息」があり、そこにたどり着けるまで神が助けてくださるので心配は要らない。
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